10,322人。これは、平成25年度に警察に届けられた、認知症の人の行方不明者数です。実に、行方不明者全体の12.3%を占めており、想像以上の長距離移動になっているケースも少なくないとのこと。保護された方の照会書の誤記入で、何年もの間、家族と離れ離れになってしまったという出来事には胸が絞めつけられる思いにもなりました。
最近、テレビや新聞などでは、こうした認知症に関わる報道が頻繁に取り上げられるようになりました。これらの報道を見聞きする中で気になっていること。それは、同じニュースを取り上げていながら、番組によって、紙面によって、そこで使われている言葉づかいには微妙に異なる点があるということです。例えば、行方不明になる認知症の人について、多くの報道では次のような表現を用いています。
「認知症による徘徊(はいかい)が原因で行方不明となる高齢者が増えています。」
しかし、一部の報道では、「徘徊」という言葉を一切使わずに情報を伝えています。これは偶然でしょうか。私が接した報道関係者の話によると、同じ組織の中でも認知症に関する認識はそれぞれ異なり、認知症の課題を当事者の視点で捉えられるか否かによっても、そこで用いられる表現はずいぶん違ってくるということを聞きました。私は、「徘徊」という言葉を目にしたり、耳にしたりすることが増えれば増えるほど、逆に、この言葉を使わないで報道している人たちの言葉づかいへの「拘り」を感じずにはいられないのです。
「徘徊」とは、「目的もなく、うろうろ歩き回ること」と説明されますが、行方不明になる認知症の人が、本当に目的もなくうろうろしていたかどうかは本人にしか分からないことです。それどころか、認知症ケアに携わる専門職に聞くと、認知症の人の行動の全てには意味があるということを教えてくれます。たとえ、その行動が辻褄の合わない理解しにくいものだとしても、周囲が「徘徊」と決めつけている認知症の人の外出などには、その人なりの目的があるという意味です。
たとえば、周囲には「徘徊」に見える行動を、認知症の人の立場から表現するとどうなるでしょう。家族思いのAさんは、「もうすぐ娘が帰ってくるので、駅まで迎えに行くところ」なのかもしれません。デイサービスに来ているBさんは、「知らない人ばかりで居心地が悪いから、自宅に帰らせてもらいます」と言うかもしれません。私ごとになりますが、数年前に他界した父親は、長い間、脳こうそくによる介護生活を送っていました。ある日のこと、私は、玄関で革靴を探している父親を発見。退職してから何年も経っているのに、「決算だから会社に行かなければならない」と、きっぱり言っていました。パジャマ姿のままで。
今、世の中で使われている「徘徊」という言葉は、本人の目的の有無などはおかまいなく、認知症の人が一人で歩いていることイコールで使われていることが多くあります。しかし、それでは社会の方から「認知症の人の行動には意味がない」というレッテルを貼っていくことになりはしないかということを考えます。
認知症で徘徊する人を守るために・・・
認知症で帰れなくなる人を守るために・・・
見過ごしてしまうほどの大差ない表現の違いかもしれません。問題は、言葉づかいにあるのではなく、認知症の人が行方不明になることだと言われてしまうかもしれません。しかし、この‘小さな違い’には、これから創ろうとしているセーフティーネットや、認知症の人にやさしい町づくりの入口のところで、どこか‘根本的な違い’を生んでしまうということはないのでしょうか。今年6月、認知症の人やその家族の応援者である「認知症サポーター」は500万人を超えました。多くの自治体では、認知症の人の住み慣れた地域での暮らしを支える体制づくりを本格化させています。そんな動きがある今だからこそ、認知症という病気への偏見を無くすことへの「拘り」を持った取り組みが大切になると思うのです。