「語らねば、伝えねば 満蒙開拓団の記録から」(2014年8月25日東京新聞)をご紹介しましす。
国家は時に、自国民を平気で犠牲にします。昭和の戦争がそうでした。その渦中で進められた国策「満蒙開拓」も…。これは遠い昔の物語でしょうか。
一冊の本が手元にあります。
「証言 それぞれの記憶」という百ページにも満たない冊子ですが、そこには、数え切れない命の記憶が詰まっています。
戦前から戦中にかけ満州(現中国東北部)へ移民し、敗戦時に、地獄の思いを味わった13人が、しぼり出すように語った体験を書き起こした証言集です。
昨年、長野県阿智村にできた民間施設「満蒙開拓平和記念館」のスタッフが聞き取り、来館者の要望にこたえて発行しました。
◆意図せずとも加害者に
戦後、固く口を閉ざしていた、あの戦争をじかに知る人々が、ようやく語り始めました。それほどむごい体験だったのです。満蒙開拓も例外ではありません。
「開拓じゃないに。中国人を追っ払って、既に開墾してあったところに入ったんだから。後ろ盾には日本軍がいて…」
先の証言集からの引用です。
入植直後から、意図せずとも自分が「侵略」に加担させられている、と気づいた移民は少なからずいたのでしょう。証言は、その無念の思いの吐露なのです。
1932年、現中国東北部に日本のかいらい国家、満州国が建国された後、貧困にあえぐ農村救済のためなどと、移民は国策で満州に送り込まれた。
「二十町歩の大地主になれる」と入植を勧められた農家も多く、その総数は、開拓農民を中心に約27万人に達しました。
しかし終戦直前に突然、ソ連軍が侵攻、関東軍には置き去りにされた。逃避行の途中で、その半数以上が集団自決や病死、行方不明という惨禍に。離散した家族の子どもらは中国人に託され、残留孤児、婦人になったのです。
◆国策に流されるままに
戦争とは、人と人とが殺し合うことです。領土や宗教、民族、資源などその理由はさまざまでも、「国を守る」ため、国家や権力者が敵をつくる。だが、実際に戦場に行かされ、血を流すのは普通の人々、弱い立場の人々です。
あの昭和の時代、国家統制が強まる中でも、戦争や戦場は遠いよそ事のような日常が続いた。「お国が言うなら」と流されがちな当時の世相や国民性が、満蒙開拓という国策を推し進めた背景と無縁ではありません。開拓民も、戦場に巻き込まれるとは思いも寄らなかったでしょう。
命の教訓を次代に継ぐ方法は、語りや文章に限りません。
映画監督の山田火砂子さん(82)は、年内の公開に向けて作品「望郷の鐘-満蒙開拓団の落日」を製作しています。東京大空襲で命拾いした経験を持つ山田さんは「戦争のひどさを伝えていくのが私たち世代の務め」と言います。
戦後「残留孤児の父」と慕われた阿智村の住職、故山本慈昭さんが主人公です。地元開拓団の教員に請われて心ならずも渡ったが、自身はシベリアに抑留され、妻子とは生き別れてしまいます。
72年の日中国交正常化の翌年に、慈昭さんは独力で「日中友好手をつなぐ会」を設立。その活動は全国に広がりました。
仲間らと中国に残された孤児の帰国支援や肉親捜しに奔走。一人で4万通を超える文通や交流も重ねました。死んだとされていた長女との対面も果たし、90年に88歳で亡くなるまで、心は日中を行き来していた。
これら民間の活動がなければ、長く帰国者の問題に目を背けてきた国の償いも支援も、さらに遅れていたでしょう。
中部の「手をつなぐ会」代表理事の林隆春さん(64)=愛知県一宮市=は「それでも二世、三世の仕事は今も派遣や非正規が多い」とみています。慈昭さんら先人の遺志を継ぐという林さんの決意を聞いて、あらためて思うのです。
国家や権力者の都合で、最後に犠牲になるのは誰なのか、と。
安倍政権の集団的自衛権の閣議決定は、憲法の論議も、国民も置き去りでした。
◆「傍観者」のままでは
沖縄戦の、ひめゆり学徒隊の惨劇の証言を今も続けているのは、86~89歳の9人だけです。多い時は30人近くいた。ひめゆり平和祈念資料館では十年余りかけて後継者を育てています。
広島の被爆体験の証言者は、恐らく百人前後しかいないと指摘する人もいます。そして「ほとんどの人が話したがらなかったが、まだ今なら間に合う」とも。
危うい空気を感じるから、語りたがらなかった人々が、あえて凄惨(せいさん)な過去を振り返り始めた。
それに学び、行動しないことには、無関心や傍観者だった、あの時代と重なってしまうのです。