2014年8月22日金曜日

終戦記念日に考える(1)

夏休みも残すところ1週間程度。子ども達も宿題や自由研究に大忙しといったところでしょうか。
さて、今月は、終戦記念日を迎えた月でもありました。今回から数回にわけて関連記事をご紹介します。まずは、各紙の社説などをいくつか。

平和主義を貫く 不戦の誓い 新たなれ(2014年8月15日 東京新聞)

発掘された戦没学徒兵木村久夫の遺書全文は繰り返し読むことを迫ります。そして、八月十五日。不戦の誓い新たなれ、と祈らざるを得なくなります。

戦没学徒の遺稿集「きけ わだつみのこえ」(岩波文庫)の中でもとりわけ著名な京大生木村久夫の遺書は、実は哲学者田辺元「哲学通論」(岩波全書)の余白に書き込まれた手記と、父親宛ての遺書の二つの遺書をもとに編集されていたことが本紙の調べで明らかになりました。

哲学通論の遺稿と発掘された父親宛ての手製の原稿用紙十一枚の遺書は、このほど「真実の『わだつみ』」の題で本にしてまとめられました。二通の遺書全文は再読、再々読を迫ってくるのです。

◆戦場に無数の兵木村

本紙記者によって書き下ろされた木村の生い立ちや学問への憧れ、二十八歳でシンガポールの刑務所で戦犯刑死しなければならなかった経緯と事件概要が読む手引となり、汲(く)めども尽きぬ思いが伝わってくるからです。哲学通論余白の一言一句、短歌も甦(よみがえ)ります。

と同時に、事件をめぐる軍人たちの行動とその後は、日本と日本人は許されるのだろうか、との暗澹(あんたん)たる気分にも襲われます。

木村が戦争犯罪に問われたのは戦争最末期の一九四五年七、八月、インド洋アンダマン海のカーニコバル島での住民殺害事件。日本軍は住民に英国に内通するスパイの疑いをかけ少なくとも八十五人を殺害してしまいました。

事件は連合軍の反攻上陸に怯(おび)えての幻影の可能性が大きく、裁判なき処刑が行われました。その処刑の残虐、取り調べの残酷、野蛮に情状の余地なく、死者に女性、子供も含まれました。

◆子供らに戦なき世を

シンガポールの戦犯裁判で死刑は旅団長と命令に従った上等兵の木村ら末端兵士五人、事件を指揮命令した参謀は罪を逃れ、戦後を生き延びました。木村遺書の「日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難との真只中(まっただなか)に負けたのである。全世界の怒るも無理はない」「最も態度に賤(いや)しかったのは陸軍の将校連中」は抑えきれぬ胸中のほとばしりでした。

木村は「踏み殺された一匹の蟻(あり)」でしたが、現地住民への加害も忘れてはならないでしょう。先の大戦の軍人の死者二百三十万人のうち六割の百四十万が餓死。国家に見捨てられ、食糧の現地調達を強いられた兵士たちは現地住民には「日本鬼」でした。被害の感情が簡単に消えていくとは思えないのです。

アジアを舞台にした大東亜戦争にはおびただしい兵士木村が存在したでしょう。学徒兵木村は「日本軍隊のために犠牲になったと思えば死にきれないが、日本国民全体の罪と非難を一身に浴びて死ぬのだと思えば腹も立たない」と納得させようとしたのです。

終戦の日に不戦の誓いを新たにし、平和を祈念する日であり続けなければならないのは当然です。

全国戦没者追悼式に臨まれる天皇陛下は傘寿。八十年の道のりで最も印象に残るのは「先の戦争」と答えられ、ともに歩む皇后陛下との姿から伝わってくるのは生涯をかけた追悼と祈りです。

戦後五十年の平成七(九五)年に、長崎、広島、沖縄、東京の慰霊の旅をした両陛下は、戦後六十年には強い希望でサイパン訪問を実現させました。

「いまはとて島果ての崖踏みけりしをみなの足裏(あうら)思へばかなし」は、その玉砕の島での美智子皇后の歌。お二人は、米軍に追い詰められ日本人女性が身を投げた島果ての崖まで足を運び、白菊を捧(ささ)げたのでした。

平成七年の植樹祭での皇后の歌は何より心に響きます。「初夏(はつなつ)の光の中に苗木植うるこの子供らに戦(いくさ)あらすな」

来年の戦後七十年、両陛下はともに八十代。このところ天皇の節目の会見でもれるのは歴史への懸念です。「次第に歴史が忘れられていくのではないか」「戦争の記憶が薄れようとしている今日、皆が日本がたどった歴史を繰り返し学び、平和に思いを致すことは極めて重要」。若き政治指導者たちには謙虚に耳を傾けてもらいたいものです。

◆一人ひとりを大切に

十五年戦争で軍の先兵になってしまった新聞ジャーナリズムの歴史も誇れませんが、気骨と見識の言論人の存在は勇気をくれます。桐生悠々は「言わねばならぬこと」を書き、石橋湛山は「私は自由主義者だが、国家に対する反逆者ではない」と抵抗を貫きました。

民主社会での報道の自由と言論は、国民に曇りなき情報を提供して判断を委ねるためです。そのための権力監視と涙ぐましい努力を惜しまず、一人ひとりが大切にされる世でなければなりません。 


8・15と戦争 記憶の継承の担い手に(2014年08月15日 毎日新聞)

終戦記念日の8月15日は、正確には敗戦の日である。中国を侵略し、米国を奇襲攻撃した日本は、69年前のこの日、一億玉砕を叫びながら万策尽き果て、降伏した。無謀な戦争による犠牲者は、日本人だけで310万人、アジアでは2000万人以上にのぼるとされる。

8月になると、新聞に戦争を振り返る特集が増える。夏だけの「8月ジャーナリズム」とやゆされたりするが、8・15が巡ってくるたび、内外の死者を静かに追悼し、戦争と平和について深く思いを致すのは、欠かせない儀礼である。

◇人を人でなくすもの

来年は戦後70年の節目だ。戦後生まれの日本人が人口の8割を占め、戦争をじかに知る人は、大半が80代から90代の高齢者である。国民の記憶の中で戦争が風化し、戦争をゲーム感覚で考えたり、戦争への郷愁を口にしたりする風潮さえも、見受けられるようになった。

残された時は少ない。戦争の記憶の継承は、未来を再び過たせないための、喫緊の課題だ。

戦争を知らない世代でも、戦争体験者の語る言葉や書き残したもの、文学作品などを通じ、戦争の姿を思い描くことはできる。

フィリピンでの戦争体験を「俘虜記」「レイテ戦記」などの文学に昇華させた大岡昇平は「兵士として、戦争の経験を持つ人間として、戦争がいかに不幸なことであるかを、いつまでも語りたい」と書いた(「戦争」岩波現代文庫)。その心情を受け止め、一人一人が記憶の継承の担い手となって、戦争の愚かさを伝えていくことが大切だ。

学徒動員で沖縄戦を戦った元沖縄県知事の大田昌秀さんは、世界のさまざまな戦争の写真を集め、その残虐さを告発してきた。

首をはねられる兵士、腹を裂かれた子供、焼け焦げた女性。目を背けたくなるような写真の数々を「人間が人間でなくなるとき」という題の記録集にまとめた大田さんは、次のように記している。「私たち個々人は、時と場合によっては、自らが容易に『非人間化』されてしまう存在であるばかりでなく、他人をも非人間化してしまう存在だということを確認する必要がある」

戦争は、まさに「人間を人間でなくす」不条理であり、命の尊厳を踏みにじる狂気である。

第一次世界大戦を描いた反戦文学として名高いレマルクの「西部戦線異状なし」は、主人公のドイツ人志願兵パウル・ボイメルの死を、読む者に知らせて終わる。

ドイツ出身で、自ら第一次大戦に従軍した作者レマルクは、最後の場面を「その日は全戦線にわたって、きわめて穏やかで静かで、司令部報告は『西部戦線異状なし、報告すべき件なし』という文句に尽きているくらいであった」(新潮文庫版・秦豊吉訳)と描写した。

第一次大戦の開戦から今年で100年。死者は最大で1500万人とされている。ボイメル志願兵も、歴史の片隅に埋もれていった、1500万分の1人だった。

太平洋戦争では、米軍の東京大空襲により、一晩で10万人が犠牲になった。原爆は広島、長崎で20万人以上の命を奪った。ほかにも無数の都市爆撃があった。土岐善麿は、日中戦争をこう詠んだ。「遺棄死体 数百といひ数千といふ いのちをふたつ もちしものなし」

◇加害の責任も忘れず

かけがえのない「生」の集積が、何万、何十万の犠牲である。その想像力を持つことが、戦死者を追悼するという行為である。

であるなら、日本軍の犠牲になった、おびただしい数のアジアの死者も忘れてはならない。

日中戦争、太平洋戦争の犠牲者はアジア全体に広がる。戦争の不条理と戦死の痛ましさに、国境はない。内外の死者を等しく追悼する誠実さを身に備えることは、アジアに計り知れない人的、物的被害を与えた日本の、当然の務めだ。

戦争は、国と国を長きにわたって不和にし、憎しみの感情を植えつける。加害の記憶がともすれば忘れられがちなのに対し、被害の記憶はずっと残る。中国や韓国との根深い歴史対立は、加害者と被害者が、それぞれの歴史の記憶をどう継承していくかの摩擦でもある。

歴史の記憶の仕方は、国によって異なるかもしれない。だが、その対立が、戦争の悲惨さを覆い隠すことになってはならない。

今、集団的自衛権の論議で、武力行使のあり方が問われている。戦争には侵略に対抗する戦争も、人道支援が目的の、やむをえない戦争もある。軍事的抑止力を持つことは、平和のためにも必要だ。

ただし、どのように始められ、どのように終わったとしても、戦争は国家と国民にむごたらしい傷と、負の遺産をもたらす。それが戦争の現実である。武力行使という言葉は、深く考えないままに、安易に使われるべきものではない。

二度とあのような戦争は経験したくない、というのが、ほとんどの国民の願いだろう。平和を論ずるにあたっては、戦争の醜さと残酷さを、常に原点に置きたい。


戦後69年の言葉―祈りと誓いのその先へ(2014年8月15日 朝日新聞)

この69年間、日本において戦争といえば、多くは1945年8月15日に敗戦を迎えた過去の大戦のことであり、そうでなければ、世界のどこかで起きている悲惨な出来事だった。

だが7月1日、集団的自衛権の行使容認が閣議決定され、戦争は過去のものでも、遠くのことでもなくなった。

■戦争と日本の現在地

国民的合意があったわけではない。合意を取り付けようと説得されたことも、意見を聞かれたこともない。ごく限られた人たちによる一方的な言葉の読み替えと言い換えと強弁により、戦争をしない国から、戦争ができる国への転換は果たされた。

安倍首相は8月6日の広島、9日の長崎という日本と人類にとって特別な日の、特別な場所でのあいさつを、昨年の「使い回し」で済ませた。そればかりか、集団的自衛権に納得していないと声をかけた被爆者を「見解の相違です」と突き放した。

見解の相違があるのなら、言葉による説得でそれを埋める努力をするのが、政治家としての作法である。ところが首相は、特定秘密保護法も集団的自衛権も、決着後に「説明して理解を得る努力をする」という説明を繰り返すだけ。主権者を侮り、それを隠そうともしない。

男性23・9歳。女性37・5歳。敗戦の年の平均寿命(参考値)だ。多大な犠牲を払ってようやく手にしたもろもろがいま、ないがしろにされている。

なぜ日本はこのような地点に漂着してしまったのだろうか。

哲学者の鶴見俊輔さんが、敗戦の翌年に発表した論文「言葉のお守り的使用法について」に、手がかりがある。

「政治家が意見を具体化して説明することなしに、お守り言葉をほどよくちりばめた演説や作文で人にうったえようとし、民衆が内容を冷静に検討することなしに、お守り言葉のつかいかたのたくみさに順応してゆく習慣がつづくかぎり、何年かの後にまた戦時とおなじようにうやむやな政治が復活する可能性がのこっている」

■お守り言葉と政権

お守り言葉とは、社会の権力者が扇動的に用い、民衆が自分を守るために身につける言葉である。例えば戦中は「国体」「八紘一宇(はっこういちう)」「翼賛」であり、敗戦後は米国から輸入された「民主」「自由」「デモクラシー」に変わる。

それらを意味がよくわからないまま使う習慣が「お守り的使用法」だ。当初は単なる飾りに過ぎなかったはずの言葉が、頻繁に使われるうちに実力をつけ、最終的には、自分たちの利益に反することでも、「国体」と言われれば黙従する状況が生まれる。言葉のお守り的使用法はしらずしらず、人びとを不本意なところに連れ込む。

首相が、「積極的平和主義」を唱え始めた時。意味がよくわからず、きな臭さを感じた人もいただろう。だが「平和主義」を正面から批判するのはためらわれ、そうこうしているうちに、首相は外遊先で触れ回り、「各国の理解を得た」と既成事実が積み上がる。果たして「積極的平和主義」は、「武器輸出三原則」を「防衛装備移転三原則」へと転換させる際の理屈となり、集団的自衛権行使容認の閣議決定文には3度出てくる。

美しい国へ。戦後レジームからの脱却。アベノミクス――。

さあ、主権者はこの「お守り言葉政権」と、どう組み合えばいいのだろうか。

■8・15を、新たに

「今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじった暴挙です」

9日、長崎での平和祈念式典。被爆者代表として登壇した城臺美彌子(じょうだいみやこ)さんがアドリブで発した、腹の底からの怒りがこもった言葉が、粛々と進行していた式典の空気を震わせた。

ぎょっとした人。ムッとした人。心の中で拍手した人。共感であれ反感であれ、他者の思考を揺さぶり、「使い回し」でやり過ごした首相を照らす。

まさに言葉の力である。

デモ隊が通り抜けた渋谷でも、揺さぶられている人たちがいた。隊列をにらみつけ、「こんなことやる意味がわかんない。ちゃんと選挙行けよ」と吐き捨てる女性を、隣を歩く友人が苦笑いで受け止める。「戦争反対」とデモのコールをまねて笑い転げるカップル。日常に、ささやかな裂け目が生じた。

お守り言葉に引きずられないためには、借り物ではなく、自分の頭で考えた言葉を声にし、響かせていくしかない。どんな社会に生きたいのか。何を幸せと思うのか。自分なりの平たい言葉で言えるはずだ。

8月15日は本来、しめやかに戦没者を悼む日だった。しかし近年は愛国主義的な言葉があふれ出す日に変わってしまった。静寂でも喧噪(けんそう)でもない8月15日を、私たちの言葉で、新たに。


歴史に学んで昭和の惨禍を繰り返すな(2014年8月15日 日本経済新聞)

先の大戦が終わって69回目の8月15日を迎えた。戦禍を被った多くの犠牲者の冥福を祈り、平和への誓いとしたい。

今年5月、修学旅行で長崎を訪れた中学生が原爆被害の語り部を「死に損ない」とののしる出来事があった。けしからぬというのはたやすいが、その年齢だと祖父母でも戦争体験がない人もいるだろうし、日ごろこうした問題を身近に考える機会がないに違いない。

日本国民の8割が戦争を知らない世代である。日本がなぜ戦争へと突き進んだのかを語り継ぐのは容易ではない。

今年はマグロ漁船「第五福竜丸」が南太平洋での水爆実験で被曝(ひばく)してから60年に当たる。船体を保存してある展示館を訪れたら、他に数人しかいなかった。戦前・戦中どころか戦後も遠くなりにけり、である。

ただ、時がたつのは悪いことばかりではない。

筒井清忠著「二・二六事件と青年将校」など同事件を扱った研究書が相次いで出版されている。筒井氏は、同事件が陸軍長老の陰謀との見方を否定するとともに、首謀した将校たちの目指す方向が必ずしも一致していなかったことを詳述している。

同事件の研究は、歴史研究家の北博昭氏が軍法会議の記録を東京地検の倉庫で見つけ出したことで近年、大きく進展した。当時を知る世代が少なくなり、厳秘だった資料が公になり始めた。

「終戦の放送をきいたあとなんとおろかな国にうまれたことかとおもった」

作家の司馬遼太郎は著書「この国のかたち」でこう書いた。そこにはさまざまな意味が込められていよう。日露戦争などの勝利におごり、無謀な戦争を始めた指導層の判断力のなさがそうだし、最後は竹やり突撃まで持ち出した異様な精神主義もそうだ。

その結果、310万人もの日本人が命を落とし、近隣諸国にそれを上回る被害を与えた。連合国が戦犯を裁いた東京裁判の正当性を巡る議論は尽きないが、当時の戦争指導者に重大な責任があったことは否定できまい。

新たな資料の発掘などにより歴史研究が進めば、何が日本をそうした国にしたのかをさらに深く考えることができる。歴史に学ぶとは、同じ過ちを繰り返さないことだ。昭和の惨禍があってこその平成の平和である。


高齢化する戦争体験者「伝え残したい」 NHK戦争証言アーカイブス・プロデューサーに聞く(2014年8月14日 THE PAGE)

今年8月15日で終戦から69年。戦争当時を知る戦争体験者は高齢化で年々少なくなっている。そんな中、元兵士や市民など戦争体験者の証言を集めて公開しているのが動画サイト「NHK 戦争証言アーカイブス」だ。なぜ戦争体験を次世代に伝えようとしているのか。その立ち上げを主導し、いまもチーフ・プロデューサーとして関わるNHKの太田宏一氏(51)は「戦争体験者の『語り残したい』という強い思いを感じる」と語る。・・・

NHK 戦争証言アーカイブス