2008年10月26日日曜日

沖縄 2008 ・ 屋我地島-病者たちの遠い記憶

今夏の沖縄家族旅行の思い出日記も今回が最終回となりました。

屋我地島は、沖縄本島北部(沖縄県名護市、中心部から約10km)に位置し、羽地(はねじ)内海に浮かぶ島です。
沖縄本島とは屋我地大橋で結ばれており、さらに古宇利大橋で今帰仁村に属する古宇利島と結ばれています。

沖縄八景・嵐山展望台



羽地(はねじ)内海は、屋我地島と奥武島に囲まれた内海で、沖縄の瀬戸内海とも言われています。沖縄海岸国定公園などの指定を受ける景勝地で、嵐山展望台から一望することができます。展望台の周辺にはパイナップル畑が広がり、1階の売店ではパイナップルの試食ができます。


国立療養所沖縄愛楽園

屋我地島に「愛楽園」という名の国立療養所があります。お恥ずかしい話ですが、島に足を踏み入れてはじめて所在とともに、ハンセン病を巡る悲しい歴史と多くの人々の苦しみ、惨劇を知りました。とてもショックでした。


愛楽園について書かれた記事「一坪反戦通信 第135号 2002年4月28日発行 【連載】やんばる便り24を見つけました。 

愛楽園には、これまで何度か足を運んだことがある。園内にある「祈りの家教会」(日本聖公会沖縄教区)執事の松岡和夫さん(石垣市出身)に園内を案内していただきながら、12歳で発病した松岡さん自身の体験も含め、園内外での差別や抑圧の実態、戦争中の苛酷な壕掘りや空襲・食料不足による被害などのお話を聞いた。

愛楽園のある屋我地(やがじ)島は、今でこそ橋で沖縄本島とつながっているが、1953年に屋我地大橋ができるまでは、渡し船でしか行けない孤島だった(橋は7年後=60年のチリ地震津波で流失、63年再建されたが、老朽化が進んだため、93年、現在の橋に架け替えられた)。無知や偏見から遺伝病、天刑病、悪質な伝染病などと忌み嫌われたハンセン病を患った人びとは、文字通り「島流し」され、隔離されたのである。

1938年に設立された愛楽園は、沖縄戦時には軍事施設と誤認され、米軍の集中砲火を浴びた。隣の運天(うんてん)港に日本海軍の基地があったため、その兵舎と間違われたのだ。しかし、園の建物のあらかたを焼失した一方、爆弾による死者をほとんど出していないのは、当時の園長・早田皓氏が園内の丘に掘らせた掩蓋(えんがい)付きの横穴防空壕(早田壕と呼ばれている)のおかげだという。戦時下の強制収容者も含め千人近くになっていた愛楽園の患者たちが、防空壕掘りに駆り出され、病気のため手の不自由な患者は、鍬やスコップを縄で縛り付けて掘ったと聞いて絶句した。

大昔、この辺りは海底だったのだろうか、丘の断面には貝殻がびっしりと埋まっているのが見える。そこを掘る手作業は傷だらけになるのを避けられなかった。らい菌は末梢神経を侵し、感覚を奪うため、傷ついても痛みを感じず、そのために傷口から破傷風にかかり、命を落とす人が相次いだ。また、栄養失調や衛生状態の悪化により、アメーバ赤痢やマラリヤなどが蔓延し、爆撃からは守られたものの、沖縄戦時の死者は、300人以上にのぼっている。

松岡さんに付いて入所者の居住区を抜け、海岸に出ると、白砂の小さな入り江が開けた。エメラルドグリーンの海を越えて、古宇利(こうり)島がすぐ近くに見える。戦後、入所者の中には、この海で漁をして生計を立てる男たちも少なくなかったという。

さくさくと砂を踏んで、入り江の突端の小さな岬にある洞窟につれていってもらった。自らも病者であり、現在の愛楽園の基礎を築いた青木恵哉(けいさい)牧師が戦後、祈りと瞑想と執筆のために使っていた場所だという。狭くて天井も低く、知らなければただの岩穴だ。このすぐ隣の浜に1935年末、青木牧師や沖縄のハンセン病患者たちは屋我地島への初上陸を遂げ、療養所建設の道を歩み始めた。近くには、生活に必要な井戸を掘ったところ、上質の真水が出たという場所もあり、「ここが愛楽園発祥の地ですよ」と松岡さんが教えてくださった。ここには納骨堂も建てられており、家族や一門の墓に入れてもらえない人びとの遺骨が安置されている。いつか聞いた「ハンセン病者は(回復しても)死後まで差別される」という言葉を思い出した。

白砂の浜を緑濃いアダンの群落が彩る美しい海岸風景を楽しんでいた私を、松岡さんの言葉が不意討ちした。「このアダンの根元には、生きることのできなかった、たくさんの子どもたちが埋まっているのです」。低くつぶやかれたその言葉は、光あふれるまぶしい浜を暗転させ、凍りつかせた。

感染力が弱く、治る病気であるにもかかわらず、不治の病、遺伝病と言われ、「らい予防法」「優生保護法」を盾に、男性は断種をしなければ結婚を許されず、妊娠した女性は強制的に堕胎させられ、こっそり産んでも、出産と同時に子どもは殺されてしまう……。それが公然かつ平然と行なわれていたという事実に、私は打ちのめされた。トゲトゲの葉を持つアダンの生命力が、急に息苦しく感じられた。

松岡さん自身、園内で妻の春子さんと簡素な結婚式を行なった二日後、断種手術を受けさせられている。その手術台の上で、松岡さんは次のような歌を詠んだ。

愛ゆえに 妻への愛ゆえにと思ほえど
涙あふれぬ 断種の手術に


松岡さんが「患者への人権侵害の最たる悪法」だと言う「らい予防法」、全国の患者が廃止を訴え続けてきたこの悪法は、96年3月の国会で約90年ぶりに廃止された。また、冒頭で触れたように、患者が原告となり、政府の誤ったハンセン病政策の責任を訴えた裁判も患者側が勝訴した。だが、それによってハンセン病の問題が終わったわけでは、もちろんない。一人ひとりの失われた過去を取り戻すことはできないという意味でも、また、私たちの内に巣くう差別や偏見がなくなったわけではないという意味でも。

自らが犯してきた罪を直視することなく、補償金によってこの問題に幕を引きたがっているのは、政府だけではない。私たち一人ひとりが自らの内なる差別と偏見を抉(えぐ)り出し、克服していく努力がなければ、また同じ過ちを繰り返すことになるだろう。とりわけ、ハンセン病療養所設立をめぐって、青木牧師をはじめとする患者たちを、激しく攻撃し迫害した歴史を持つ名護の市民として、知らなかった、では済まされないという思いが、私をこの調査に向かわせた。

今回は、調査後、同じく調査員で高校教師の大西照雄さんに誘われ、数人で彼に案内してもらったジャルマ島のことを報告して終えたい。大西さんは、平和ガイドなどで愛楽園との付き合いが長く、生徒たちにハンセン病を通した「学び合い」を行なっている熱血教師である。

ジャルマ島は、屋我地島と本島にはさまれた羽地(はねじ)内海の中ほどに浮かぶ小さな無人島だ。1927(昭和2)年、救らいのために沖縄に派遣された青木牧師が、31(昭和6)年、沖縄県が屋我地島に向かい合う本島側の嵐山に建設しようとした療養所に対する地域住民の激しい反対運動、35(昭和10)年に、幾人かの患者とともに住んでいた屋部(やぶ)の家が焼き討ちに遭うなどの迫害を受け、住む場所を求めて渡った「のがれの島」と呼ばれている。

濃淡の配色を見せる穏やかな海に、大小の島影がうっとりするような景観を見せる羽地内海が、こんな苛酷な歴史を秘めていようとは、教えられなければ想像もつかないだろう。私たちは、内海に面した屋我地ビーチから手漕ぎのボートを借りて、ジャルマ島へ向かった。

面積990平方メートルの小島に上陸した私たちを迎えてくれたのは、地面の上に虚ろな目を見開いた、たくさんの髑髏(どくろ、しゃれこうべ)だった。昔からの風葬の場所だと聞いていたので驚きはなく、風雨に磨かれて金属的な艶(つや)さえ感じさせる「彼ら」に敬意と、かすかな親しみさえ覚えた。どの時代を生きた、どんな人だったのだろう……。

島の洞窟を住処に、青木牧師ら24~25人が6カ月間、ここで暮らしたという。これらの髑髏や人骨とともに生きていたわけだ。洞窟の周りは鬱蒼と樹木に包まれ、イモや野菜を植えられるほどの小さな広場がある。患者たちが掘ったという井戸もあり、きれいな石積みが残っていたが、大西さんの話では、塩水しか出ず、隣の村から夜に水を運ぶ毎日だったらしい。

愛楽園自治会の『命ひたすら―療養50年史―』(89年11月発行)には次のように書かれている。「ジャルマ島に来てからは、病友たちは浮浪することをやめ、神に祈り神を讃美し、魚を獲って最低の物質的生活をした。国立長島愛生園・宮川量分館長夫人千代子が、ある時ジャルマ島を訪ねて慰問したが、物質的には極めて貧しいものの、信仰の深さは素晴らしいものがある、と感激して帰ったとのことである。」

迫害に次ぐ迫害の中で、患者たちがわずかに心を休めることができたのが、このジャルマ島での生活だったことを知るとき、私は、私たちがつくってきたこの社会の罪深さを改めて思わずにはいられないのである。


国立療養所沖縄愛楽園
http://churaho.com/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E7%99%82%E9%A4%8A%E6%89%80%E3%80%80%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%84%9B%E6%A5%BD%E5%9C%92


青木恵哉(けいさい)師「のがれの島」の碑



魚ならば海にもぐりても生きん
鳥ならば空に舞い上がりてものがれん
五尺の体 住む所なしと
青木師外十五名がのがれのがれて
露命をつないだ無人島ジャルマ!
しかし水のない島は人間の永住に適しなかった。
屋我地大堂原は水豊か神の選び賜うた地上の天国であった。
碑に向かって左方海上五百Mジャルマ島
1976年6月25日 建之

この碑が立つ辺りから西方五百mくらいの海上に見えるのが、「のがれの島」ジャルマ島である。

屋部・安和の集落で、ハンセン病者である、というだけの理由で人々に忌避され、住んでいた小屋を焼かれ行くあてのなかった青木恵哉氏一行が、昭和10(1935)年6月27日、難を逃れて身を寄せた所がこの島である。島全体で300坪位、100坪ほどの平地があるだけで、あとは岩だらけの島である。

島に住んでから半年近く経った昭和10(1935)年12月27日夕闇迫る中を、最後の目的地屋我地大堂原をめざして、島を後にしたのだった。昭和37年(1962)年12月沖縄県らい予防協会理事長・上原信雄氏は、青木恵哉・徳田祐弼両氏と計って、島の頂上に「のがれの島」の標柱を建てた。

国定公園の一角、屋我地大橋のたもとに立つ碑を前にするとき、人々は、美しい自然の静けさの中で、青木恵哉氏をリーダーとするハンセン病者の一群が、互いにいたわり、助け合いながら、尊い命をひたすら生きていった命の響きを、歴史の音として聞くことができるに違いない。(名護市ホームページ「名護市の文化財と史跡」から)


沖縄戦とその後27年もつづいた米軍支配。そして日本「復帰」後、再び始まった国家による隔離政策・・・。

そうした中で、どれだけの人がどのように生き、どのように死んでいったのか、それすら定かではない。2001年5月の国と原告との和解で<らい>に対する社会の理解は深まったといわれるが、高齢化した彼らを受け入れてくれるところはもはやないだろう。

島を離れる日、愛楽園の敷地とひとつにつながった北の浜に足を運んだ。アダンの茂みを抜けると幾人かの年老いた男や女たちが目にとまった。元患者たちだった。沖合いには目もくらむような蒼い海が拡がっている。その海を、帰る家も故郷も失った人々が、ただじっと見つめつづけていた。(森口 豁著「だれも沖縄を知らない」から)