2008年10月5日日曜日

沖縄 2008 ・ ひめゆりの塔

沖縄を訪問する目的や意義は人によって異なりますが、我が家の場合には必ず「戦争」をテーマの一つにしています。今年は、南部戦跡のひとつである「ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館」を訪問しました。

「ひめゆりの塔」には、戦時下、陸軍病院に看護要員として配属され尊い命を失った、沖縄県立第一高等女学院と沖縄師範学校女子部の学徒隊や職員が祭られています。また、ひめゆりの塔の後方には6つの展示室を設けた「ひめゆり平和祈念資料館」があり、生存者の証言などが展示されています。

これまで3度ほど訪問していますが、訪問する度に「戦争の悲惨さや平和のありがたさ」を学び、「平和を維持することが今生きている私達の責務」であることを思い起こさせてくれる場所です。特に子どもには必ず訪問させたい場所です。


ひめゆりの慰霊碑・ひめゆりの塔

ここには亡くなられた方の名前が刻んであります。碑の手前にある穴は、陸軍病院第三外科壕があった壕です。右の木の左側に小さく写っているのが「ひめゆりの塔」です。当時、壕(洞窟)の中には住民や軍人の遺骨に混じってひめゆりの少女たち数十体の白骨が重なり合っていたそうです。




入口にある石碑の裏には、沖縄県女子師範学校の校歌が刻まれていました。





ひめゆり平和祈念資料館

アジアへの侵略、日本政府が沖縄を「捨て石」にしたこと、戦争の悲惨さがリアルに表現されてあります。



米軍の沖縄上陸作戦が始まった1945(昭和20)年3月23日深夜、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女子学校の生徒222人、教師18人は、那覇市の南東5キロにある南風原の沖縄陸軍病院に配属されました。

3月26日、米軍は慶良間列島に進攻、4月1日には沖縄本島中部西海岸に上陸。米軍の南下に従い日本軍の死傷者が激増し、学徒たちは後送されてくる負傷兵の看護や水汲み、飯上げ、死体埋葬に追われ、仮眠を取る間もなくなっていきます。

5月下旬米軍が迫る中、学徒たちは日本軍とともに陸軍病院を出て、本島南端部に向かいました。移動先の安静もつかの間、激しい砲爆撃の続く中で6月18日を迎えます。学徒たちは突然の「解散命令」に絶望し、米軍が包囲する戦場を逃げ惑い、ある者は砲撃で、ある者はガス弾で、そしてある者は自らの手榴弾で命を失いました。陸軍病院に動員された教師・学徒240人中136人、在地部隊その他で90人が亡くなりました。

米軍は沖縄戦を日本本土攻略の拠点を確保する最重要作戦と位置づけ、物量のある限りを使い、対する日本軍は米軍の日本本土上陸を一日でも遅らせるために壕に潜んでの防衛・持久作戦をとりました。沖縄を守備するため、軍は県民の根こそぎ動員を企てると同時に、学徒隊を編成して生徒たちの戦場動員を強行しました。持久作戦、根こそぎ動員は、12万人余にのぼる沖縄住民の犠牲を生みました。

あれから40年以上たちましたが、戦場の惨状は、私たちの脳裏を離れません。私たちに何の疑念も抱かせず、むしろ積極的に戦場に向かわせたあの時代の教育の恐ろしさを忘れていません。

戦争を知らない世代が人口の過半数を超え、未だ紛争の耐えない国内・国際情勢を思うにつけ、私たちは一人ひとりの体験した戦争の恐ろしさを語り継いでいく必要があると痛感せざるを得ません。

平和であることの大切さを訴え続けていくことこそ亡くなった学友・教師の鎮魂と神事、私たちはこの地にひめゆり平和祈念資料館を建設いたしました。 1989年6月23日 財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会(「ひめゆり平和祈念資料館ホームページ/http://www.himeyuri.or.jp/top.html」から引用)