2010年1月19日火曜日

国立大学の法人化の意味

国立大学が法人化されて、まもなく6年が経過します。法律で定められた6年間の事業期間の区切りを迎えます。この機に国立大学の法人化の意味について振り返ることは、次期の6年間を占うためにも必要なことだと思います。

国立大学の法人化のねらいは、教育・研究の活性化にあります。なぜなら、教育・研究は国立大学の本業だからです。しかし、それには構成員の意識改革に依存する部分がとても大きく、残念ながら、企業ならばとっくに行われている改革が、今ようやく大学で行われています。

国立大学の法人化に際して、人が手当され、お金が手当され、設備が措置されたわけではありません。むしろ運営費交付金の毎年1%削減や人件費の5%削減が課せられました。国立大学法人に裁量権が委ねられたものの、競争原理が導入され、自己責任が課せられました。


法人化は、教職員の意識改革を通して教育・研究を活性化しようとするものです。法人化に相応しいマネジメント体制整備が必須条件となりました。

1 「大学運営」から「大学経営」へ
  • 学長を中心とするトップマネジメント体制の構築、合理的な「意思決定システム」の下、意思決定の迅速化と経営責任の明確化が必要になりました。
  • 業務実績等が自己評価を基に「第三者評価」にさらされることになりました。
  • 縦割り社会からの脱却と横の連携強化が重要になりました。
  • 「教学」とそれをサポートする「業務」を車の両輪として上手く機能(マネジメント)する必要が生じました。
  • 文部科学省が担ってきた企画や監査機能が法人に求められることになりました。

2 個性豊かな大学づくり
  • 大学の「ビジョン」が重要になりました。
  • 社会に大学のメッセージを発信することが重要性を持ってきました。
  • 「Demand Side」から「Supply Side」へ発想の転換が必要になりました。
  • 経営資源の「集中」と「選択」が必要になりました。

法人化の体制整備は避けて通れない道です。では、”法人法”の求める体制をいち早く整備した大学が、先んじられるのでしょうか?
法人化の求める体制整備だけでは評価に値するとは思いません。体制整備を基に経営効率化を一段と進め、これを教育・研究の活性化に繋げられれば評価されるのです。

しかし、体制整備がないと、教育・研究の活性化に限られた経営資源を振り向けられないのも事実です。法人化の本丸は、教育・研究の活性化で、体制整備はその手前に控えた存在といえるでしょう。

法人化で求められるものは、教育・研究の活性化、行政からの要請、法の遵守の3点です。ここでいう法の遵守とは、法人化に伴って労働基準法や労働安全衛生法の適用事業所となったことを示します。この3点は、三者択一ではなく、同時に達成しなければならない課題です。そうなればマネジメント体制の整備は避けて通れない道と指摘できます。法人化の体制整備は、教育研究の活性化の前提条件であり最低条件でもあります。


さて、法人化されたとて、文部科学省は様々な場面で国立大学に介入してきます。”拡大”認可行政を押し付けてきます。法律に定められた学長の人事権である理事、監事の選考、幹部事務職員の人事にまで手を出しています(文部科学省の現職課長が、権限をちらつかせながら、国立大学の学長に理事や副学長の斡旋をするという驚くべき”大学自治への不当な介入”を行っているとの話を聞いたことがあります)。法人化という制度に隠れて目に見えない強権を現在でも堂々と行使しています。

少し古い記事ですが、久々に、この日記ではおなじみの広島大学高等教育研究開発センター長 山本眞一さんの寄稿をご紹介します。

国の一部局-国立大学法人化との関係で-


国立大学が法人化されて今年で丸5年が経過した。6年間の中期計画終了まであと1年余り、各国立大学は第二期の中期計画策定時期を控え、大忙しになってくるであろう。また、これからの国立大学法人制度の成功のためには、第一期中期計画の間に何が起こったのかについても、書類の上だけではない現実の諸問題の分析を通じて明らかにしていく必要があると思われる。

法人化後の国立大学の自由度

さて、法人化の契機になったのは、国の行財政改革全般の大きな動きであったことは周知のことであるが、その際国立大学は、従来国の一部局あるいは文部省の内部組織であって、国の制度の制約の中で自由には動けなかったものが、法人化後ははるかに自由度が増すと喧伝されていたことを思い出す。確かに、ある意味ではその通りであろう。何といっても法人格を取得し、大学として必要な諸活動について当事者能力が増したことは、法人化の大きなメリットであったであろう。

ただし、この法人化は国立大学の私学化ではない。逆に言うと学校法人が持っている自主・自立性とは異なるさまざまな制約を前提としたものである。それは独立行政法人通則法が、この種の法人の任務として、公共上の見地から確実に実施することが必要な事業のうち、国が「直営で行う必要はない」が民間に任せておくと誰も引き受けないものを、独立行政法人に委ねて「効果的・効率的」に実施させる、という意味のことを述べていることからも明らかである。

国立大学法人は、一般的な独立行政法人ではなく、大学の特性に配慮するために特別の立法によって生みだされた制度ではあるが、しかしこの独立行政法人制度の趣旨の多くを踏まえた制度設計がなされている。たとえば、運営費交付金の交付、中期計画の認可や事後評価はその意味で、大幅に緩和されているとはいえ、政府が司令塔、国立大学が実施部隊という独立行政法人制度の持つ遺伝子は、ここに確実に組み込まれていると見なければならない。

自宅と借家のアナロジー

私は、2000年から2年間の間、この国立大学法人化に関する調査検討会議に専門委員として加わった経験があるが、会議の席で「私立大学が自宅だとすれば、国立大学は借家に住まうようなものではないでしょうか」という趣旨の発言をしたことを覚えている。

つまり、大事なことは自分だけで決めることはできず、何でも大家の了解をとらなければならないことを遠まわしに言ったつもりであった。

実際、法人化したとはいえ、経費の多くを国からの運営費交付金に依存している状況では、予算査定を通じての国の関与を避けることはほぼ不可能である。

人事制度についても大きくは民間準拠になっているが、しかし大事なところは国の制度と変わることはない。

つまりさまざまな面で、国の管理・監督がある以上、ある学長がいみじくも発言したように、手足を縛って泳げというものであるという批判も受けかねないのである。そのような中で、「国の一部局」から外に出て、果たして国立大学は以前よりも自主・自律性が増したであろうか。また、そうだと言えるとするなら、それにはどのような条件が必要なのであろうか。

この点について、私は公立大学法人について面白い話を関係者から聞いたことがある。それはある公立大学が法人化されたとき、その法人のナンバー・ツーである事務局長が、法人化以前は大学を設置する自治体の局長クラスと同格であったものが、法人化後はその自治体の担当課が所管する「民間事業者」の事務方のようなステイタスになってしまい、行政の内部事情を知ろうにも、情報源から遠のいてしまい、従来に比べてはるかに難しくなって大いに当惑したという話であった。

「官」からの距離が問題

確かに、欧米とは異なり、わが国のように官民の力関係が「官」の方に偏っている中では、官民が対等の立場で交渉し合うというよりも、「官」との距離そのものが問題になる。つまり「官」の中枢に近ければ近いだけ、自由度が増すというものである。よく、制度の細かい運用について、省庁の幹部は物分かりがよいが、末端の事務官は固い解釈をしがちであると言われるのも、このことと無関係ではない。ただし、組織が公務員的か民間的かでも、その自由度の高低は大いに異なるのではないだろうか。

そのようなことを図式化してみた。ここではさまざまな組織が、官すなわち国からの距離の大小と、その組織が公務員的か民間的かで場合分けしてある。従来の国立大学はその意味で、国に近くかつ教職員が公務員であったことからも分かるように極めて公務員的な組織であった。法人化によって国からの距離が遠くなったが、公務員的な性格が改まらない限り、ある意味での不自由さは避けようもなさそうである。

この先、国立大学法人が制度の枠組みの中で、できるだけ自由度を増して、責任ある自律的な組織として立ちゆくためには、何と言ってもこの公務員的な性格を薄め、民間的発想にもとづく経営を強めていくしかないであろう。

例えば、運営費交付金の増額のためには、単なる陳情の域を超えたさまざまな工夫や仕掛けを国立大学の側で考えねばならないだろうが、そのような知恵と覚悟は国立大学に果たしてあるであろうか。しかし、その場合でも大本である「官」からの距離が問題になるような社会をわが国が維持し続ける限り、その改善は容易ではない。広く社会システム全般の設計の見直し、つまり官と民との関係見直しまで含めた幅広い視点から、国立大学法人の在り方を.考えるべきではないだろうか。

それが、「国の一部局」のままの方が自由であったと皮肉を言われないための、最良の対応であると私は思う。(文部科学教育通信 No.215 2009・3・9)