大学生の厳しい就職事情に関する報道が目につく昨今、学生の就職における出身大学のヒエラルキーについての記事を目にしました。学歴社会が生んだ負の遺産とも言うべきシステムが未だに残っていることにやや驚きでした。
さて、この「大学のヒエラルキー」、様々なものがあります。学生の受験や就職に関わるものだけではありません。例えば、国立大学法人の場合代表的なものとしては、東京大学を頂点とした旧帝大、旧六、新八といった大学の歴史的成り立ちに由来する序列。国立大学法人は未だにこのような序列の下に、様々な資源・制度・処遇面での格差が存在しています。また、法人化後は、国から措置される運営費交付金、補助金、競争的資金はもとより、授業料免除・奨学金制度など学生支援の面、教職員の人事・給与など処遇の面など、大学間格差は益々拡大傾向にあります。
旧帝大から地方単科大学に至る大学間格差は、事務職員の内面にも大きな影響を与えています。例えば、管理職の人事です。大学の事務職員の人事権は、法人化によって各大学長に委譲されました。しかし、現実には未だに文部科学省がその実権を握り続けています。
文部科学省出身の管理職の多くは、大学現場におけるやる気や能力の有無に関わらず、手当など処遇の手厚い大規模大学に優先的に配属され、2~3年のローテションで文部科学省や彼らにとって居心地のいい(やりやすい)大学への転勤をくり返しながら最短ルートで事務局長や理事へと昇進し、報酬も増え続けていきます。しかも、定年後の天下り先への斡旋付き。一方、大学出身の管理職は、同じノンキャリアでありながら、かついかに能力があろうとも小・中規模大学を回り続け、昇進もうまくいって部長どまりです。
こういった文部科学省の既得権益が国立大学法人を支配し続けている以上、各大学長は、法人化の趣旨に則った戦略遂行を進めていくことは不可能です。所属する会社の経営者(学長)ではなく、文部科学省の役人の顔色を見、その意向に沿って行動することが自身にとって有利であると信じて疑わない管理職に、責任をもった大学改革などできるはずはないでしょう。多くの学長がこのような不合理に大きな不満を持っているという話をよく耳にします。
また、このような管理職と日々の仕事を共にしている事務職員に与える心理的な影響も懸念されることの一つです。文部科学省や管理職の思想や行動によって、国立大学法人間の格差を目の当たりにし、彼らのモチベーションが向上するとはとても思えません。
最近、旧帝大で働く若い職員が、家族の生活を理由に実家に近い地方小規模国立大学法人への転勤を上司に相談したところ、はっきりと止めるように諭された話を耳にしました。反対の理由はどうも大学の大小、それに伴う処遇に関わることのようです。正確なところは定かではありませんが、仮にそれが反対の理由だとすれば、その上司の判断は必ずしも的を得ていないのではないかと思います。
確かに地方小規模大学は、旧帝大のような大学に比べ、財力、人力など全般的に劣っていることは否めません。地方小規模大学の教職員の仕事ぶりは、概ねスピード感に欠けているところがあることも確かです。しかし、彼らはそれなりに所属する大学の発展のためにそれぞれの立場で懸命に考え、行動していると思いますし、決して地方小規模大学だからといって働き甲斐のない職場とは言い切れないと思います。
そもそも旧帝大と地方小規模大学を比較すること自体、無意味なことですし、地方小規模大学にはそれなりの歴史・伝統や、他大学にはない特色・個性があり、それを十分に生かした大学づくりに前向きに取り組んでいる大学も少なくありません。
大学の事務職員は大学の構成員である以上、所属する大学の発展に寄与するために自分は何をすればいいのか、何ができるのか、それをすれば何がよくなるのかを日々考えながら生きていくという点では旧帝大も地方小規模大学も同じです。しかし、旧帝大と地方小規模大学では、事務組織の規模・構成・機能等の面において全く異なるところがありますし、当然ながら、業務の範囲・深さ・責任等の面で大きな違いがあります。
私見ですが、国立大学法人の事務職員は全国どの大学でも、それなりの資質を有し、やる気もある素晴らしい方ばかりであると思います。旧帝大でも地方小規模大学でも国立大学法人であることには違いなく、我が国あるいは世界の将来を背負う人材をどう育てるかという目的は変わりません。
学生や保護者の皆様から同一の授業料等をいただいて教育研究を行う国立大学法人が、学生や社会の目線に立った大学改革や経営努力を進めていかなければならないことを前提とした上で、国から措置される財源や大学で働く教職員の資質によって大学間の格差が生じてしまうことは、教育の機会均等という国立大学の設置趣旨からいっても決してあってはならないことだと思いますし、文部科学省、各国立大学法人の教職員は、自分の都合に安住することのないように自戒していかなければならないと思います。