2014年10月31日金曜日

輝き続ける存在

ブログ「人の心に灯をともす」から自分自身が輝き続けること」(2014-10-01)をご紹介します。


2500年も前にお釈迦様は、与えらえるのを待っている人から自分で転換して、明るい方向へ歩んで来ないと幸せにはなれないことをお示しになりました。

たとえば、家族の中に一人でもお天道様のような人がいたら、その家は暗くなりません。

ところが、家族全員が求めてばかりいる人だったら、「どうして、なんで」とお互いに相手の欠点ばかりを指摘して、喧嘩が絶えない険悪な雰囲気になってしまいます。

これは会社も同じでしょう。

陰と陽というものがあるのは仕方がないけれども、自分自身は明るく生きていこうと努力をし、心がけていると、周りが「あの人のような明るい人になりたい」と思うようになる。

そう思ってもらえるのだとしたならば、とても嬉しいことであり、もっと努力してみようという心も出てきます。

しかし、あまりにも陰気な人にかまいすぎてとらわれていると、自分が疲れてしまって、いつの間にか輝きを失い、暗い闇に落ちてしまいます。

ですから、相手にお天道様のようになることを強要するのではなく、自分自身がお天道様のように、ただそこにいて輝き続けることがとても大切です。

そうして自然と周りに良い影響を与えるような人でいるのがいいでしょう。

お釈迦様が説いた真理の教えというのは、まさに野に咲く一輪の花の如く、ただそこに咲いているという在り方をしなさいということでした。

野に咲く花が「自分がきれいに咲いているのだから、あなたもきれいに咲きなさい」と説法をしているのではない。

その姿を見ることによって、相手が自ら「私もそういうふうな存在になろう」とうなずきとるというのが仏の教えです。

生きていれば日々いろいろなことが起こりますが、すべてプラスに考えて、マイナスもプラスに転じる努力をしていく。

自分がどんなに辛くても、自分に縁のあった環境の中で何事にもとらわれず、自然体で輝き続ける努力をしていくと、自分も周りも自然と幸せになっていきます。


たった一人、誰かが部屋に入ってきただけで、座がパッと明るくなるような人がいる。

いつも、陽気で、元気よく、ニコニコと笑いがある人だ。

人を喜ばせ、人に与えることばかりを考えている。

逆に、自らは何もせず、欲しい欲しいと、求めてばかりいる人が部屋に入ってきたら、座は暗くなる。

親が仕事から帰ってきて、愚痴や不平、不満ばかりを言っていたとしたら、将来、子どもがその職業を選ぼうとするわけがない。

親が楽しそうに仕事をしているから、子どもはその仕事にあこがれる。

これは、家庭だけでなく、会社でも、組織でもみな同じ。

人を喜ばせ、人に与えることばかりを考えている人は、輝いている。

それは、一言も発せずとも、ただそこにいるだけで、そこに咲いているだけで、影響力がある人。

自分自身が輝き続ける存在でありたい。


著者 : 塩沼亮潤
致知出版社
発売日 : 2013-11-21

2014年10月30日木曜日

地方創生、教育格差拡大に処方箋を

大学進学率-地域格差を見つめよ」(2014-10-24朝日新聞)をご紹介します。


高校生の大学進学率の差が、都市と地方で広がっている。

朝日新聞の計算によると、最上位の東京(72.5%)と最下位の鹿児島(32.1%)の差が40ポイントあった。20年前とくらべると倍になっている。

これでは住む場所の違いで進路が狭まりかねない。

大学に進まない選択は、もちろんあってよい。だが、行きたくても行けない生徒が多い現実は問題だ。能力や意欲のある子が進学をあきらめるのは、本人だけでなく社会にとってもマイナスとなる。

文部科学省はこの地域間格差を政策課題ととらえるべきだ。各都道府県で国公私立別や専門分野別の進学率を世帯年収の層ごとに調べ、分析してほしい。

進学率はこの間、どの都道府県も伸びてきたが、特に大都市圏が著しい。国が02年、都市での大学増設の抑制方針を撤廃し、大学が集中した。もともと大学が多かったが、さらに通いやすくなった。

地方はどうか。大学に進みたくても数や定員が少ない。都市の大学に行くには、下宿代など親の負担が重くなる。保護者の収入が下がる折から難しい。

そこで重要なのが、地元の国立大だ。戦後、教育の機会均等を実現するために「1県1大学」以上の原則でつくられた。だが、その授業料は、入学金と合わせると82万円と30年前の倍以上まで上昇している。

最後の頼みの綱は奨学金だが、全体の9割の額を占める日本学生支援機構の奨学金は、すべてローンだ。しかも利子つきの枠が7割近くを占める。返さなくてすむ給付型はない。返せなくなると延滞金もかかる。

そもそも都市部の方が親の学歴が高く、年収も多い。地方の生徒はいくつものハンディを負っているのだ。

ことは教育にとどまらない。

大学教育を受けるのに地方が不利となると、子どもを持つ家庭や、これから産もうとする若年層が流出する恐れが高い。地方の人口はますます減る結果となるだろう。

政府の教育再生実行会議は、「地方創生のエンジン」となる教育のあり方や、これからの教育財政の方向の議論を始めた。

地元の国立大が豊かでない家庭の子に門戸を開き、地域の人材を育てる役割を持つことに改めて目を向けてもらいたい。奨学金の充実は言うまでもない。

教育は、努力次第で誰もがチャンスを得られる「格差是正装置」だったはずだが、「格差拡大装置」になっている。この現状への処方箋(せん)を描いてほしい。

2014年10月29日水曜日

子どもの貧困問題

道具が買えなくて部活を辞める・・・「家が貧しいから」と言えない日本の子どもたち」(2014-10-23弁護士ドットコム)をご紹介します。


将来の日本社会をになう子どもと若者の「教育」について考えるシンポジウムが10月18日、東京都内で開かれた。教育や福祉の専門家によるディスカッションでメインテーマとなったのは、貧困家庭の子どもたちの教育問題だ。登壇した社会学者の宮本みち子さんは「子ども自身は『家が貧しい』とは絶対に言えない」「周りの大人が子どもの貧困にアンテナを張ろう」と呼びかけた。

「家が貧しい」と子どもは言えない

「内閣府からは、日本の子どもたちの6人に1人が貧困の状態にあるというデータが発表されています。また、家族からも学校からも職場からもこぼれ落ちて、困っていても相談する人がいない『社会的孤立』の状態にある人も、2000年代から急速に増えてきました」

放送大学副学長で、子どもや若者の問題にくわしい宮本さんは、このように話を始めた。

「子どもの貧困が増えていると言うと、アフリカなどの飢餓でやせ細った子どもを思い浮かべて、『そんな子どもがどこにいるんだ?』と反論する人がいます。しかし、現代日本における貧困は、アフリカのそれとは違います。

たとえば、家にお金がなくて部活の道具が買えずに、部活を辞めてしまう子がいるとしましょう。でも、子ども自身は『家が貧しいから』とは絶対に言わず、黙って辞めてしまいます。

そのため先生も友達も、その子がなぜ辞めたのか分からず、『あの子は根性がない』『努力が足りない』と受け止めるわけです。でも、その子の背景を調べれば、ただちに貧困状態にあることがわかる。そんな状態が今、日本で見られる貧困です」

社会で普通だとされている生活がおくれない経済状態は、「相対的貧困」と呼ばれている。日本の子ども6人に1人が、そんな状態にあるというのだ。

「生活保護世帯の子ども」が親から言われていること

そんな子どもたちへのサポートとして、「教育支援」は大きな役割を果たしている。埼玉県職員で社会福祉士の大山典宏さんは、埼玉県の取り組みを次のように説明した。

「埼玉県では、生活保護世帯の子どもを対象とした『学習教室』を29カ所設置しています。中学3年生については、対象者の4割が通っています。そのうち、8割が母子家庭です。6~7人に1人は不登校で、彼らの多くは小学校3~4年生程度の学力しかありません」

学校に行けない不登校の子どもが、学習教室には顔を出す。その背景には、生活保護世帯の複雑な事情があると大山さんは説明する。

「生活保護世帯の子どもは、親から『先生や友達に迷惑をかけるな』『学校で静かに生活して、先生の印象に残るな』とさんざん言われて育っています。

生活保護を受けているということで、ただでさえ偏見の目で見られるのだからそれ以上迷惑をかけるなと、親は言いたいわけです。

しかし、そのために、授業で分からないことがあっても先生に質問できず、家でも教えてもらえないという状態に陥っています」

一方で、学習教室はどうか。

「学習教室へ来れば、大学生のボランティアが1対1で勉強を教えてくれる。同じような境遇の子どもたちとグループで勉強ができ、仲間を作れる。そして、学習教室の職員が、『頑張ってるね』『受験受かると良いね』と声をかけて見守ってくれる。

このように、自分を大事にしてくれて1人の人間として認めてくれる大人がいる環境だからこそ、子どもたちは学習教室に通ってくるのです」

貧困への「アンテナ」を張ることの重要性

貧困問題について、なぜ「子ども」への支援が大事なのか。宮本さんは次のように警鐘を鳴らす。

「若者にきちんとした教育や就労の機会を与えないと、知識やスキルがないまま中年になります。すると、満足な収入を得られる職に就けず、生活保護を受けるしかないような状況になってしまう。子どもや若者の問題というのは、社会の『アンテナ』と地域が、一丸となってこの問題に取り組まなければいけないという自覚がとても大切だと思います。

今後、貧困と孤立状態の中で安心・安全な生活ができない人が増えれば、たとえば、『繁華街の雑踏に若い女性が1人でいても危なくない』といった状態は失われるだろうと思います。つまり貧困や孤立の問題は、『自分の家庭が』『うちの子どもだけは』といった個人的な問題ではなく、日本社会全体の安全を左右する問題です」

子どもの貧困問題について、東京都荒川区は2009年から調査研究を行うなど、力を入れて取り組んでいる。宮本さんは「東京・荒川区では、子どもに直接かかわるような教師や役所の人間は特に、子どもの貧困について『アンテナ』を張ろうと呼びかけています」と指摘。そのうえで、そうした取り組みを広げていく必要があるとして、次のように力を込めていた。

「ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代を経過した日本は、戦後の貧しい時代とは違います。そのため、貧困とはどういう状態かを知らない人は少なくない。目の前の子どもが、昨日も今日も明日も同じ服を着ているのにピンと来ない。子どもが、自分の貧困を訴えることは非常に大変なことですので、まずは周りの大人が『アンテナ』を張らなければ、問題は解決しないのです」

2014年10月28日火曜日

志を果たしに、いつの日にか帰らん

人口減少 田舎から教育を変えよう」(2014-10-25朝日新聞)をご紹介します。


教育を変える風が、田舎から吹いている。各地を取材して実感したことだ。

これまでの改革は、学校選択制や、塾代のクーポンを渡す教育バウチャーなど、学校や教育産業の多い「都会発」が目立っていた。今は明らかに風向きが違う。

変化を感じたのは、地方の公立高校だ。いままでは、生徒の偏差値を上げ、都会に送り出す装置であり続けた。「ムラを捨てる学力をつけている」と批判されたこともある。それがここにきて、地域をつくる人材を育てようとする動きが相次いでいる。

キーワードは「魅力化」だ。島根の隠岐諸島にある県立隠岐島前(どうぜん)高校が使い始めた。生徒数の減少で統廃合の危機に直面したが、魅力的な学校にすれば生徒は来るはずだと、田舎の強みを打ち出す作戦に出た。少人数指導や地域資源を生かしたカリキュラムを売りに、生徒を全国募集。生徒数はV字回復した。これに続けと、北海道から沖縄まで各地の高校が、魅力化を旗印に動き出している。

これらの高校のある離島や中山間地は、人口の集中する都会に比べて遅れた地域と思われてきた。だが、少子化や人口減という視点からすると、都市より早く課題に直面した先進地である。

2040年には、全学年を合わせて30人以下の小学校が10校に1校を占めるとの推計もある。日本の学校の仕組みは明治以降、右肩上がりの時代に整えられ、一定の規模を前提としてきたが、見直しを迫られるだろう。

40人が一斉に同じ目標を目指す教育から、一人ひとりが自分の課題を持つ教育へ。教室で教える教育から、地域で学ぶ教育へ。

そこから育つのは、経済成長時代、家庭や地域を顧みなかったモーレツ社員とは違い、コミュニティーや家庭など足元のつながりを重んじ、一人ひとりの価値観を大切にする若者なのではないか。

島前高校のある海士(あま)町にIターンし、魅力化にかかわる人たちは、ちょうど100年前に発表された文部省唱歌「故郷(ふるさと)」を、歌詞を変えて歌う。「志を果たして、いつの日にか帰らん」ではなく、「志を果たしに、いつの日にか帰らん」。ふるさとは、都で功成り名遂げて帰る先ではない。自分のやりたいことに挑む場なのだ。

人口減少は50年続く」と経済財政諮問会議の「選択する未来」委員会は述べる。子どもや若者の予算をどう確保するか。全国一律の教育条件をどう守るか。課題は尽きない。だがピンチはチャンスでもある。「当たり前」と思ってきた学校や教育の姿を問い直し、次の社会を考える機会としたい。

2014年10月27日月曜日

救おう小さな命

社説「奪われる子の命 親を支え虐待の芽摘む」(2014-10-17東京新聞)をご紹介します。


子どもの命を脅かす事件が絶えない。全国の児童相談所が2013年度に対応した児童虐待件数は7万件を超え過去最多に。行政や医療、地域が妊娠期から親の支援に連携し、虐待の芽を摘みたい。

親が育てられない子どもを預かる慈恵病院(熊本市)の赤ちゃんポスト「こうのとりのゆりかご」に今月初め、生後間もない男児の遺体が放置されていた。

警察の調べによると、死体遺棄容疑で逮捕された無職の母親(31)は数日前、頼る者もない中でひとり、自宅で出産した。同居する両親は妊娠や出産を知らず、母親は死んでしまった男児を家に置いておけないと、自分の車で病院に運んだ、という。

遺体を置き去りにされた病院の関係者は無念だろう。相次ぐ乳児遺棄事件に心を痛めてこの7年、全国で例のない事業に奔走してきた。目前でまた一人、小さな命を救えなかった。

病院側は匿名のまま子どもを預かるという、今のやり方を変えない。名乗ることを条件にすれば、親の事情で預けられないケースが出て、救える命も救えなくなる。

厚生労働省のまとめによると、03年7月から約10年間で、虐待死した子どもは546人。ゼロ歳児は240人で約4割を占める。身体的暴力、育児放棄、生まれたまま放置など、虐待死のケースで加害者の大半は実母だ。貧困や精神疾患、夫のDV、未成年など、虐待におよぶリスクをいくつも抱え、親としてどう振る舞えばいいのかが分からない。

助けて、と声を上げられない彼女たちにこそ、妊娠時から支援の手が差し伸べられるべきだ。

小児科のある中核的病院には虐待に対応する組織が整えられつつある。産科のある病院では妊娠期から不安な人を見つけ、出産後に育児支援が必要と判断すれば、地域の保健サービスにつなぐ。全国には予算や人手不足で体制をとれない施設が多い。地域や病院間の格差とならないよう、国は予算を投じ、取り組みを加速させてほしい。

「望まない妊娠」のために妊婦検診も受けず、病院に行かずに自宅で出産する人が少なくない。名古屋市や大阪府では電話やメールで助産師が相談を受ける「妊娠SOS」を開設し、効果を上げている。

地道な取り組みが親たちを孤立から守る。児童相談所や病院、保健所、地域が、支援の窓はいつでも開かれているのだというメッセージを、絶えず発信してほしい。

2014年10月26日日曜日

格差拡大措置としての大学のグローバル化

桜美林大学大学院・大学アドミニストレーション研究科教授の山本眞一さんが書かれたスーパーグローバル大学~その光と影」(文部科学教育通信 No349  2014-10-13)をご紹介します。


大学改革と国際化の断行

先月26日、文部科学省はかねて公募・審査中であったスーパーグローバル大学創成支援事業の審査結果を公表し、東京大学や慶鷹義塾大学など37大学を支援の対象として採択した。内訳は、世界大学ランキングトップ100を目指す力のある、世界レベルの教育研究を行うトップ大学(タイプA:トップ型)として、東京大学や京都大学など13大学、これまでの実績を基にさらに先導的試行に挑戦し、わが国の社会のグローバル化を牽引する大学(タイプB:グローバル化牽引型)として、千葉大学や国際教養大学など24大学である。タイプAに採択された13のうち11大学が国立(旧帝大のすべてと筑波、東京医科歯科、東京工業、広島大学)であるのに対し、タイプBについては国立10、公立2、私立12大学が採択され、国立大学には長岡、豊橋の技術科学大学、奈良先端科学技術大学院大学のような新構想大学が、また公私立大学には会津、国際教養、国際、立命館アジア太平洋大学のように比較的近年に設立され、かつ話題性に富んだ大学が含まれているのが目立つ。

このスーパーグローバル大学創成支援事業は、安倍政権が昨年の教育再生実行会議で提言した「大学改革、グローバル人材育成」を受けて開始したものであり、今回の公募要領にもそのことが明確に触れられている。文部科学省においては「徹底した『大学改革』と『国際化』を断行」し「世界的に魅力的なトップレベルの教育研究を行う大学や、我が国社会の国際化を牽引する大学を重点支援」(募集要領)することになったとしている。政策文書としてはかなり強い決意が感じられる。

採択された大学については、今後10年間にタイプAでは最大5億円、タイプBでは最大3億円の支援金が毎年支出されるが、途中、4年目と7年目に中間評価が行われる。評価の結果によっては、事業中止を含めて計画の見直しの可能性があり、また支援金額の変動もありうる。もっとも、数百億円あるいはそれ以上の予算規模をもつ大規模大学にとっては、支援金額の多寡よりも、当該大学が支援事業に採択されたという標章効果の方が大きいはずであり、また部局自治に阻まれてとかく手元不如意になりがちな大学執行部にとっては動きがとりやすい貴重な財源ということになるだろう。ただし、事業に推移によっては自己財源による持ち出しも大きいはずであり、また、特色GPなどのGPものやグローバル30で経験済みのように、支援期間終了後の事業の継続性についての課題が残る。

学習効果の高い仕掛け

さて、このような大型支援事業が、大学運営に与える影響について考えてみよう。第一に、大学改革と国際化という政策目的の実現性についてである。今回採択された大学の構想名を一瞥する限り、大変魅力的な名前が目白押しである。企業でいえばあたかも新製品の発売のためのキャッチ・コピーと見紛うばかりの工夫振りである。大学が学問の府であることが当然とみなされていた半世紀前の大学人が見れば、腰を抜かさんばかりに驚くであろうこれらの構想名は、これらが政府主導ではなく大学の自主的判断の末にひねり出されたものだとすれば、確かに当該大学の大学改革や国際化に向けた確固たる意思表明である。これらの構想を構想調書に取りまとめ、文部科学省(日本学術振興会)に提出するため、学内においてさまざまな、そして深い議論がなされたことであろうから、その議論をしたこと自体に当該大学についての自己点検・評価、問題把握、課題抽出、解決策模索の動きを刺激する効果があったはずであり、仮に申請した構想が不採択であったとしても、そこには一定以上の効果があったと考えなければならない。

その意味で、構想調書に盛り込まれた記入様式とりわけ共通観点としての「国際化関連」、「ガバナンス改革関連」、「教育の改革的取組関連」などの評価項目は、書き進むことによっておのずから自己点検・評価が行われ、かつ大学改革に関して全学的な学習効果が高まるという、まことに巧妙な仕掛けが施されているように読み取れる。同時に、各大学はこれらの項目に自信を持って答えられる、つまり中教審や政府の言う大学改革プランを真摯に受け止め、これを実行しない限り、政府からの追加的財政支援を受け取ることはできないのだということも学ぶことであろう。その意味で、政策の実行とその効果の判定はこれからのことではあるが、少なくとも初期段階での効果は絶大であると言ってよいであろう。

第二に大学の自主自律との関係である。大学の自主自律は、結果としての大学の多様性につながることが必要である。政府が一律の基準で多くの大学の活動を、たとえ構想調書という間接的な形であれ、評価することにはかなりのリスクを伴う。つまり大学が政府の方針に振り回されることにより、結果として大学は自律性を失ってしまうのではないかという危惧である。これは前節で書いたこととも関連するが、この種の競争的資金は事業に直接関係することがら、ここでは国際性という面から当該大学のユニークな構想を評価すべきであって、共通観点に当たる事項については、あくまでも参考情報に留めるべきである。

政府や大学の枠を超えて

ただ実際は、図表(略)で示すごとく公私立大学ではそもそも申請率が低く、また採択された大学の割合もわずか全体の2%であり、大多数の大学にとっては影響の薄い支援事業であったことが分かる。問題は、3分の2もの大学が申請し4分の1の大学が採択されている国立大学にある。ある国立大学副学長が「前から選ばれることが分かっていた大学ばかり」(9月27日付け朝日新聞)と語ったそうだが、今後、採択校と非採択校との格差が大きくなることが予想される中、これへの反発の一方で、政策への同調圧力が一層増大することも考えられ、法人化後の国立大学の自主自律ということが一層深く問われるこどになるのではないか。

第三に大学改革についての、国と大学との関係である。特定の高等教育政策実現のためにこのような政府主導の競争的資金が導入されてまだ日は浅い。しかし、政府(政治と官僚)と大学がこのように堅く結びつきあって政策を推進していくという手法には、かつての高度経済成長期の産業政策とその帰結を思い起こさせるものがある。しかし現実のグローバル化は、国や企業の枠を超え、はるかに幅広いスケールで世界を覆いつつある。高等教育政策が4半世紀以上前の産業政策の後追いで良いはずはない。紙面の都合でここでは詳しく論じる余裕はないが、政府主導で大学単位に事を進める手法は、お隣の韓国、中国にも見られるがごとく、東アジアに独特のものではあるまいか。米国や欧州の優れた大学には、このような手法にはよらずにグローバル展開を進める力がある。

われわれにはより深くその背景や彼らの手法に学ぶものがあるはずである。スーパーグローバル大学創成支援は10年間の予定とされているが、次期に向けては、政府主導、学長主導とは異なるさらに柔軟な新しい発想を用意して備えるべきではないだろうか。

2014年10月25日土曜日

介護制度を再生し「地方創生」につなげる

介護制度の立て直しこそ地方再生につながる」(2014年10月1日 INSIGHT NOW!)をご紹介します。


前回の記事では、離れて暮らす老親の在宅介護を余儀なくされると、離職や離婚などで家庭が崩壊しかねないリスクが小さくないことをお伝えしました。

あなたの家族に忍び寄る「介護による家庭崩壊」の危機

今現在では、人手不足のために介護施設に空きがないことが、こうした在宅介護を余儀なくされる最も大きな要因です。しかしこの先、厚労省が進めようとしている「在宅介護」の重視方針が現実化すると、経済的理由から在宅介護を選ばざるを得ない家庭が随分増えるのではないかと危惧されます。介護制度財政の厳しさゆえに、コストがかかる施設介護をそう簡単に選ばせないよう、施設介護を極端に割高にする方向にじりじり切り替わっていく可能性が高いのです。その結果、大半の家族が自宅介護を選ばざるを得ないようになると、前回の記事のような悩ましい事態が多くの家庭で生じることになります。

しかもこうした「在宅介護重視」の方向に政策を持っていくことは、第二次安倍内閣の看板政策になりつつある「女性活用」というスローガンの実現を邪魔する、という大きな矛盾を生むことを指摘しておきたいと思います。

在宅介護を余儀なくされたとき、ニッポンの典型的核家族では女性に主な負担が行きがちです。せっかく長い期間をかけてキャリアを築き上げてきた共働きの妻や独身女性はもちろん、ようやく子育てから解放されて社会とのつながりを再び持とうと考え始めた主婦もまた、(本人または配偶者の)老親の在宅介護のために家に縛りつけられるとしたら、本人も不幸、家族も不幸、会社・社会にとっても損失です。それは明らかに安倍政権の掲げる「女性活用」のスローガンとも、そして人手不足に悲鳴を上げる産業界の要望とも相反します。

では男性が主として自宅介護を担えばよいのか?それでは同じことです。女性でも男性でも、働き盛りの人々が望まぬ介護離職を余儀なくされるようではいけないのです。

そもそもこの「在宅介護重視」という方向性は、財政官僚の強い要請を受けた厚生官僚による「モグラ叩き」的発想から来ていると思われます。根本課題を解決することなく、「施設介護は公共のカネが掛かるから、自宅介護にシフトさせればいい」という安易な発想です。それに加え、「保守派」を自称する議員の「介護はまず家族がやるもんだ」という主張や、介護を受ける老人たちの「死ぬ時には自宅で家族に見守られて死にたいもんだ」という希望が反映していることもほぼ間違いないでしょう。しかしそれらの主張や希望はどれほど介護の現実を見た上でのものでしょうか、実に疑わしいと思います。

小生は幼い頃、祖父が晩年寝たきりになったため母がその介護に追われていた姿を間近に見ました。当時はまだ介護制度自体がなく、自宅介護が唯一の選択肢でした。その担い手である母は我慢強く体力があり、祖父は小柄で要求が少なかったのが不幸中の幸いでした。しかも数年後に祖父は亡くなり、母は解放されました。大好きだったはずの祖父が死んだとき、家族の間にほっとした空気が流れたのを覚えています。あれが10年とか続いていたらどうだったろうと思うと、安易に「家族が面倒をみるのが本筋」といったことを口にする人たちには、「ではあんた自身が介護を担うのか?」と質したくなります。

要介護度の高い老人の介護というものは素人には精神的・肉体的につらいものです。どれだけ尽くしても、「家族なら当然」といった受け止め方を被介護者や周囲からされがちで(不思議なもので、職業人としての介護士のほうが感謝される機会が多いくらいです)、感謝の言葉で家族介護者が満たされることは滅多にありません。家族による介護しかなかった時代には、介護を担う人(大体は主婦です)が精神的に追い詰められ、虐待が生じたりして社会問題になったのです。そうした悲惨な事態を避けるため、我々の社会は介護制度を導入し、様々なタイプの介護施設とサービスを作ってきたのです。それを忘れてはなりません。

「在宅介護」を積極的に選びたい家族に対し、そのための訪問介護サービスのオプションを増やすという方向性であれば何の問題もありません。むしろ、当初は在宅介護で始め、要介護度が高くなれば施設に入るというのが普通かも知れません。要は、選択肢を増やす方向ならば望ましいことであり、逆に、在宅介護しか選べないように仕向けるとしたら、それは社会的な「改悪」なのです。今必要なのは施設介護の否定や諦めではなく、むしろ中核たる施設介護の仕組みを立て直すことです。

ではどうすれば今の介護業界の「要介護者の増加→介護給付の増加→介護財政の悪化→介護報酬の抑制→介護職の離職→人手不足→介護施設増設の遅れ→“空き”待ちの増加」という悪い連関を断ち切り、施設介護の社会的持続可能性を担保することができるのでしょうか。その主なポイントはたった2つ、従来の発想を転換するところにあると思います。

第一に、官僚の意向とは真逆ですが、介護職に対する報酬を早急に思い切り引き上げて、介護を一生の仕事にして家族を養っていけるレベルにすることです。今後も介護給付が増えることが予想されるため、官僚は介護報酬を抑制することに躍起になってきました。しかしその結果、「人を助けたい」という純真な気持ちで介護の仕事を始めた若者は「こんな給料では結婚できない」と絶望し、前の職を失い「とにかく仕事にありつけるなら」と介護の職に就いた一家の大黒柱は「これでは家族を養っていけない」と呆然とするのです。その結果、介護職は常に全業種平均より高い離職率(H24で17%)で推移してきました。不況下で漸減傾向にありましたが、景気回復によって他業種に転職する機会が増えたため、離職率は再び上昇に転じております。

某外食チェーンで明らかになったように、忙しい職場で櫛が抜けるように同僚が辞めていくと、残った人たちの負担が急激に高まり、それが職場崩壊につながることすらあります。こうした悪循環を押し止めるには、その社会的価値に似合った、まともな報酬を支払うことが急務です。ましてや介護職が相手するのは、これまで長年社会に貢献してくれたお年寄りです。そうした人々に敬意を払いながら丁寧な介護をする気になる報酬と職場環境を提供しなければ、いずれ私たちが年老いたとき、腐った制度に復讐されることでしょう。

そもそも介護業界を社会の「コストセンター」扱いにしてきたことが間違いであり、介護制度の失敗をもたらしているのです。公共事業の観点からは、介護業界は土木・建設業界より優れていると小生は考えています。公共インフラ投資は乗数効果が随分低くなっているばかりか、人手の取り合いを通じて民間投資を「クラウディングアウト」しています(別記事「公共事業頼りの景気維持は続かないばかりか副作用を生んでいる」を参照されたし)。費用対効果が上がらない公共インフラ事業にこれ以上無駄金をつぎ込むよりも、介護職の人々の懐を潤したほうが乗数効果は高く(彼らは消費性向が比較的高いと推測されるため)、景気維持・向上への貢献は高いと考えられます。

そして何より、地方に継続的な仕事を生むことができ、若年層が定住するための核となる職場を生み、その土地でお金が循環する流れを作ることができます。原燃料や資材を通じて中央と海外にお金が流出する公共事業とは大いに違うのです。ただしその際に留意すべきは、潤わすべきはあくまで働く介護職の懐であって、彼らを雇う介護施設を運営する法人の理事たちではないことです。そのための担保の仕組みが課題です。

次に第二の点ですが、介護士の仕事にメリハリをつけて、要介護度の高い老人の介護に集中させることです。そして施設であろうが自宅であろうが、要介護度の低い人の介護と、介護そのものではない雑用は思い切って地域ボランティアに任せるのです。

これは第一の点に対する「そんなに介護報酬を引き上げたら、ただでさえ高齢者が増えてくるのだから介護財政はますます悪化し、介護保険料も政府がつぎ込む税金も上がってしまう」という懸念の声に対する答になります。つまり介護職の仕事の単価は引き上げるが、一人当たりの仕事量はこれ以上増やさない、産業トータルとしての仕事量もあまり増えないよう抑制する、ということです。とはいえ、高齢者が急増するのでトータルでは増加するのは避けられませんが、その増加分は消費税の増税分と公共投資を抑制する分の税金からシフトさせればよいと考えます。

今の介護職はあまりに雑多な仕事をし過ぎで、そのために休憩時間も少なく、帰宅時間も遅い、それなのに(残業代を含めても)給与は安い、と踏んだり蹴ったりです。先ほど触れた高い離職率の有力な原因の一つは、こうした仕事環境からくる「燃え尽き」症候群だと指摘されています。一人当たりの仕事量を減らすことで、本当にプロの仕事が必要なところに集中できる余裕が生まれます。

それを補うため、介護の現場に思い切ってロボットなどの設備を導入するよう公的資金で補助することも有効です。決して大規模なものである必要はありません。それでも介護の重労働さを和らげるのに大いに役立ち、介護士がぎっくり腰になるリスクをかなり少なくしてくれます。こうした介護設備を導入できるのは、施設介護ならではの利点です(当然ですが、自宅介護ではとても無理です)。これにより、極端な重労働という介護職のイメージ(というか現実ですが)が改善されると期待できます。

当然ロボット導入だけでは足りません。介護職の仕事量の軽減のためには、地域ボランティアがそれ以外の仕事をカバーしてくれることが必須条件です。こうした体制を既に充実させているところは稀でしょうが、地域にボランティア志望者は意外といるものです。ただ、自ら声を上げることは普通の人には難しく、きっかけを待っていることも多いのです。

地元の市区町村が本腰を入れて、こうした「軽い介護のボランティア」を組織化することが必須で、住民連絡網や催しを通じて何度も呼び掛けることでその「きっかけ」を生みだします。うまくいけば地域再生のための絆作りにもなるでしょう。

暇を持て余している定年後のオジさんたちにも、「(遠くない)将来の自分たちがお世話になるための仕組み作りだ」と説得すればよいでしょう。現役企業戦士が、会話の減った娘や息子を誘って地域の役に立つ機会にもなります。地元の学校と組んで、お年寄りと交流する機会が減っている小中学生の学習プログラムに組み込んでもらうことも一つの手です。とにかく多くの住民に、できる範囲で少しずつ参加してもらうのが長続きするコツでしょう。

「軽い介護」だけでなく「介護予防」もボランティア体制が効果的な対象です。地域住民が主体となって、筋力や持続力を維持させるための体操などをお年寄りにしてもらう活動です。寝たきり老人をなるべく増やさないのがその狙いで、住民もハッピーに暮らせて地域の絆を保て、市町村も医療費を抑制できます。厚労省の「介護予防」のモデル地区となっているのが三重県・いなべ市で、小生の親戚が市長として、「元気づくりシステム」と称して引っ張ってきました。今では全国から視察が相次いでおり、ほぼ完成した形となっているようです。

第一点の報酬改善、第二点の多忙過ぎる仕事量の抑制と重労働の改善が実施されれば、介護を仕事にしたいという女性・若者は確実に増えます。そうなれば、地方の過疎化にも歯止めが掛かると期待できます。故郷に戻りたいけど仕事がない、というボトルネックがなくなれば、豊かな自然と人間らしい生活を手に入れられる地方のほうがいいという人は多いでしょう。安倍政権が急に唱え始めた「地方創生」は、介護制度の再生こそが基礎になるはずです。

2014年10月24日金曜日

官民イノベーションプログラム

IDE:現代の高等教育(2014年10月号)からご紹介します。


大学に食やねぐらを頼っているスズメたちのさえずりが、このところひときわにぎやかだ。寄ると触ると口の端に上るのが「カンミンイノベーションプログラム」。大学発のベンチャー企業で産業を活性化し、日本にイノベーション(革新)を起こしたいと、政府が2012年度の補正予算で東京、京都、大阪、東北の国立4大学に計1,000億円を投じた「官民イノベーションプログラム」のことだ。

「ダイジョウブカネ、コノジギョウ」「コンナ大金モラッテ、ダイガクガワモ困ッテルミタイダヨ」……。電線の上で、スズメたちは心配している。国の威信をかけた事業。失敗したら大学の権威と信用は失墜し、政府から大目玉を食らうだろう。結果、スズメたちの寄る辺がなくなりかねない危険性も大とくれば、かしましくもなろう。

これから起こす一文は、今年9月初めの時点での話。読者の皆さんの手元に届くころには事態は激変しているかも知れないことをお断りしたうえで、スズメのさえずりの適否に一考を加える。

「官民イノベーションプログラム」

まず仕掛けがややこしい。①国が国立4大学に計1,000億円を「出資」する(内訳は東大417億円、京大292億円、阪大166億円、東北大125億円)、②その金で各大学はファンド事業を立ち上げる、③大学はタネになる学内研究を見つけ出し、ビジネス化するためのベンチャー企業を興させる、④ベンチャー企業にファンドが「出資」する。そうして経営を始めるベンチャー企業には金融機関や個人投資家の投資も促し、産業や経済の活性化を狙う。

目指すは日本版シリコンバレーの実現。大学にはイケイケドンドンでやってもらいたい、という鳴り物入りの事業だが、何しろ仕掛けが複雑だから、取り巻くシステムも仰々しくならざるをえない。

監督官庁は経済産業省と文部科学省で、それぞれ省内に有識者会議を設けて大学から「申請」された事業計画などを審査し、ファンド事業者にふさわしければ「認定」を出す。事業内容も審査し、適正と認めれば設立・登記ができる。一方、設立されたファンドからベンチャー企業への個々の出資計画については文科省が単独で審査して認可し、事業開始後も同省でモニタリングする、という構えだ。

以上のような体制で9月初め現在、どこまで事態が進んでいるかというと、すでに1,000億円は昨年3月に4大学に対し渡されている。次いで今年6月には、国立大学がファンドに出資できるよう改正された産業競争力強化法と国立大学法人法に基づき、大阪大学と京都大学が事業申請し、9月に事業者として認定された。東大と東北大については、具体的な目処は立っていない。

ここまで読んで、このプロセスの奇妙さに「え?」と首をひねられた方も多いだろう。大学が何か事業をしたいという場合には、まず大学側が大量の書類を用意して申請し、審査を経て初めて金が出てくるというのが一般的な流れだからだ。ところが、官民イノベーションプログラムの場合、先に資金が各大学のフトコロに納まり、それから必要な法律が整えられ、大学が申請し-という正反対の流れとなっている。政府の並々ならぬ意気込みはいやおうもなく伝わって来るが、問題は、食べつけない脂っこい料理を胃袋に入れた時のように、大学が消化不良を起こさないかということだ。

同床異夢

そもそも、なぜプログラムは始まることになったのか。霞が関や永田町に巣食う事情通のカラスたちによると、発案されたのは2012年12月、自民党が大勝し、安倍政権が発足した直後。イノベーション志向の新政権に財務官僚が持ち込んだという。

落ち着き先として当初は経産省が上がったが、その時、経産官僚の脳裏に浮かんだのが「キバセン」、つまり基盤技術研究促進センターの苦い記憶だ。技術開発のために国と民間があわせて4,000億円超を出資したものの成果を残せず、最終的に国が出資した約2,700億円の巨費が回収不能となり、2003年に雲散霧消した悪名高い事業だ。その二の舞になりはしないかと懸念したとされる。「ソコデ目ヲツケラレタノガ、ベンチャーファンドノ大変サナンテ何モ知ラナイ文科省ダッタトイウワケサ」。一羽のカラスが気の毒そうな表情で解説してくれた。

押しつけられた格好とはいえ、文科省側には受け入れの余地があったようだ。ある幹部は「旧帝国大学といえども、同列ではない」と言う。国立大学を世界的な研究大学と教育大学、地域に貢献する大学とに仕分けしたい思惑を抱く文科省にとって、このプログラムが序列化の好機と映ったことは、十分に考えられる。

事業を審査する文科省の委員会は公開が原則だが、その議事録が昨年10月の第2回以降公開されていない。それもあって、何か不都合なことが起きていると勘ぐりたくなるが、表面的にも、事業を巡る大学側の動きには危なっかしさが目につく。

まず、投資する側とされる側が同じ大学内にいることだ。大学とファンドをどう切り分け公正性を保てるか、ガバナンスが厳しく問われることになる。それがうまく作動していないせいからか、「この事業を利用して、総長選で有利な流れを作るためよこしまな動きをしている幹部がいる」などと、とても最高学府とは思えない低レベルの風評が飛び交う大学もある。反面、ファンドを外部から連れてきた専門家集団に任せたら、その経営責任を大学が負えるのだろうかという懸念も消えない。

民業圧迫も心配だ。UTEC(東京大学エッジキャピタル)など、東大や京大には今回のプログラムと同趣旨のファンドがすでにある。にも関わらず、破格の規模のファンドを国主導で作れば、民業圧迫のそしりを免れないのではないか。

そうした事業に関する個別懸念もさることながら、根本的な問題は、国立大学法人とは何なのか、そのあるべき姿、使命を明確にできないまま今日に至っている点ではないかと思う。

法人化されて10年、国立大学は自主自立した経営で新しい大学像を打ち出すことを求められていた。だが、これまで散々、交付金の圧縮や予算執行の方法などで手足を縛っておいて、いったいどんな自主自立が可能だったというのだろう。いきなり巨費を投じて「エリート大としての務めを果たせ」で、局面が転換するとは思いない。

国は法人化でどのような大学、国づくりを実現したいのか、改めて全体で共通認識を固めたうえで、プログラムの意義を浸透させるべきだ。でなければ、せっかくの思い切った公費拠出が、単に大学内外を翻弄することに堕してしまいかねない。

虹の向こうは

ときに明るい光にも出会う。いち早く文科、経産両省に事業認定された大阪大学だ。

同大では、2006年に「インダストリーオンキャンパス」事業を始めた。企業の研究者が1社当たり年間3,000万円の研究費を背負ってキャンパス内に研究室を構え、同大の教員らと共同研究をする。今は200人以上が常駐、ベンチャー企業も立ち上がって、ここで生まれた新技術を活用する工場も大阪府内に近く誕生する運びだとか。

今後は、こうした先行事業から生まれるベンチャーに新たな枠組みで作ったファンドから出資し、具体的に動き始めたらあとは社会に任せて次の研究の芽を探す「エコシステム」を形成していきたいという。「世の中に,阪大は役立つと思ってもらいたい。大学への信頼を取り戻すための事業だ」と担当理事は言う。

取材を終えて帰途についた新幹線の車窓から、虹が見えた。重い雲間に輝く7色の光彩に、現状の混乱、ピンチは、やり方次第でチャンスに変わるかもしれないと思い直した。虹の向こうにあるのが、スズメの悪夢でないことを心から願っている。

2014年10月23日木曜日

企業であれば当然の戦略

IDE:現代の高等教育(2014年8-9月号)から、「本音の大学経営」をご紹介します。


近畿大学が2016年度に14番目の学部を東大阪キャンパスに作る。近ごろ流行の「外国語・国際系学部」で、定員は500人、1学年の後期から1年間、全員に海外留学を義務づける。帰国後は、総合大学の強みを活かし、一般教養教育や専門教育を主に英語で行う。

英語で授業を行い、全員に海外留学を義務づけている学部は、既に他大学にいくつも存在する。しかし、近畿大が面白いのは、学部の構想段階から語学教育のベルリッッと連携し、英語教育や留学先確保で同社の全面協力を得ることだ。

下手をすると、語学学校への丸投げという批判も起こりそうな戦略に、塩崎均学長の説明は明快だ。

「学部の構想段階から民間教育機関と手を組むのは異例と思うかもしれないが、ベルリッツに丸投げするつもりは全くない。あくまでも主体は近畿大だ。近畿大の実学教育とベルリッツのノウハウを融合させて、新しいカリキュラムを実現したい。入学直後の1年生の英語力を、短期間で留学できるレベルまで鍛えるノウハウも、毎年500人の留学先を確保するノウハウも、我々には十分にはないのだから」

「今春入試では、全国1の志願者数を集め、文科相の競争的資金を数多く獲得するなど、近畿大の教育・研究に対する評価は上がっている。でも、国際化への対応の遅れが大学全体の評価を下げている。国際化を進めないと3万人を超える総合大学に成長した近畿大が、アンバランスな大学になってしまう。国際系の新学部を作るのは喫緊の課題だった」

自分たちの強みを徹底的に伸ばすと共に、弱点があれば、それを強化する。そのためには外部のリソースを活用することも厭わない。企業であれば当然の戦略だ。だが、それを大学のトップが認め、実行することは容易ではない。

近畿大といえば派手な入学式でも有名だ。ある幹部は、かつてこう言った。「近畿大の新入生は不本意入学が多いからこそ、派手な入学式で帰属意識を高める必要がある」。これもまた、大学人が、外に向かってなかなか言えることではない。

近畿大は理事会ガバナンスの強い大学だ。しかも最近は躍進著しい。そんな大学だからこそ、採り得た戦略かもしれないが、実はこれからの少子化時代に最も重要なのは、本音ベースの大学経営だという気がする。近畿大の次の一手は何か、興味は尽きない。

2014年10月22日水曜日

高等学校教育の再定義

IDE:現代の高等教育(2014年8-9月号)から、「平成の学制改革」をご紹介します。


教育再生実行会議が、第5次提言「今後の学制改革の在り方について」をまとめた。自民党が打ち上げた「平成の学制大改革」を受け、昨年10月から9回の会議と5回の視察・意見交換を経て纏めた。だが、当初の意気込みは何処へやら、一部の小幅な制度改革に留まる内容だった。

答申は、①子供の発達に応じた教育の充実、様々な挑戦を可能にする制度の柔軟化、②教員免許制度改革と、質の高い教師確保のための養成や採用、研修等の見直し、③教育を「未来への投資」として重視し、世代を超えて子供・若者を支える-という構成からなる。

主な提案内容を見ると、①では、幼児教育の充実や無償教育、義務教育期間の延長、小中一貫教育学校(仮称)の制度化、実践的職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化、②では、複数の学校種で指導可能な免許状の創設、教師インターン制度(仮称)の導入、③では、教育財源確保、教育サミット(仮称)の開催などが目に付く。

この中で、最も実現性が高いのは、小中一貫教育学校(仮称)の制度化だ。小学校と中学校は学習内容や環境が大きく異なるために、学校になじめない中学1年生が少なくない。小中一貫教育は、「中1ギャップ」に効果があるとして、東京都品川区や広島県呉市などを皮切りに全国に拡大している。提言は現実を追認し、制度的なお墨付きを与えた。

ただ、それ以外の項目では、提言は一気に現実味を失う。それぞれの提言事項について、「見直しを行う」「環境整備を行う」「体制を整える-などのあいまいな表現が並ぶ。「国は小中一貫教育学校を制度化し、柔軟かつ効果的な教育を行うことができるようにする」という歯切れの良さとは対照的だ。「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化」にしても、既に中央教育審議会が似たような提案をしたが、大学や短大の反発もあって実現していない構想だ。

こうした提言になったのは、本気で学制改革を断行すれば、影響は極めて大きく、しかも巨額の予算が必要になるからだろう。例えば、義務教育の期間を延長するには、財政的な裏付けが不可欠になる。憲法26条は「義務教育は、これを無償とする」と明確に定めている。無償化と切り離して義務教育を延長することは不可能なのだ。

だが、実行会議が指摘するように、六三三四制が導入されたのは今から70年近くも前のことだ。当時と今とでは、子供の成長や社会の状況は大きく変化した。そもそも、現行の学制は、中卒者のほぼ全員が高校に進み、18歳人口の半数以上が大学へ進学する事態を想定してはいない。グローバル化も少子高齢化も想定外だ。高大接続が上手くいかないのも、学校教育と社会の接続が上手くいかないのも、現行学制が間尺に合わなくなっていることと無縁ではないように思う。

学制改革の本丸は何なのだろうか?色々意見はあるだろうが、私は高等学校教育の再定義ではないかと考える。元々、新制高校は、後期中等教育なのか、高等教育の準備教育なのか、発足当初から2つの性格を併せ持っていた。高校、大学の進学率が低かった時代には目立たなかった内在的矛盾が、進学率の上昇と共に表面化したのが今の高校ではないか?

気になるのは、再生会議の提言で、学制改革の議論は一件落着というムードが広がらないかという点である。今こそ、政治的思惑を離れて、幅広い分野から人材を集め、少なくとも2、3年は時間をかけて、学制改革を抜本からじっくり議論する時期だと思う。

2014年10月21日火曜日

学会とは「知的闘争の場」

IDE:現代の高等教育(2014年8-9月号)から、「学会のマナー」をご紹介します。


6月末に開かれた高等教育学会を覗いて、とても気になる場面があった。2時間の自由研究発表で、5人の発表があった。持ち時間は1人20分、15分で発表を終え、5分の質疑応答。100分で5人全員の発表を終えた後に、20分の総括討論を経て終了というスケジュールである。

旬のテーマだったので、初日の朝一番の発表にしては傍聴者も多く、それぞれの発表もそれなりに聞き応えのある内容だった。ただ、決められた15分で発表を終え、その後の質疑に応じた発表者は1人のみで、他の4人は20分全部を発表に使ってしまい、質疑に回す時間がなくなった。傍聴者は最後の総括討論まで、4人に質問をしたり議論する機会はなく、総括討論も時間不足なまま尻切れトンボの印象だった。

さすがに、司会者も気になったのだろう。「あえて、発言者に苦言を呈するが、研究発表は講演会ではない。研究成果を発表し議論をして、それを元にさらに研究を進めていく場だ」。こんな趣旨の注意をしていた。

実は、過去にも、教育社会学会で似たような体験をしたことがある。発表を終えた大学院生が、「用事があるから」と言って、総括討論に残らず、退出してしまったのだ。

前回のことも思い出しながら、改めて学会発表とは何なのだろうかと考えた。他の学会の事情はよく知らないが、高等教育学会では本人が申請すれば、中身の出来不出来にかかわらず発表の機会が与えられる。

だからこそ、発表の後の議論は重要だ。発表者の問題設定は適切なのか、分析手法に問題はないのか、得られた結論は正しいのか……。傍聴者と議論を闘わす中で、研究の質が問われ、磨かれて、そこから次の研究への道標が得られる。自説を言い放しで終わるのならば、個人のプログや政見放送と似たようなレベルといわれても仕方ない。

確かに、伝えたいことがたくさんあるのに、与えられた時間が少ないという悩みは理解できる。だが、研究者同士で壮絶な知的ファイトを展開する場面がなくなったら、学会の意味はない。

こんな事を知り合いの研究者と話していたら、「最近は業績評価が厳しいので、とにかく学会発表をやりたがる傾向がある」「学会費を払っているのだから研究発表は権利だと考える若手もいる」などという自虐的つぶやきを聞いた。もちろん、このことだけで、学会全般を論じるつもりはない。ただ、もしも学会が「知的闘争の場」という緊張感を失ったら、学問の自由が危機に晒される事だけは間違いないと思う。

2014年10月20日月曜日

グロ・イノ人材以外は要らないのか

IDE:現代の高等教育(2014年7月号)から、「グロ・イノ人材だけでいいの?」をご紹介します。


ある著名な経済人が、国の審議会でこんな趣旨の発言をしていた。

「今、日本が育てるべき人材は二つある。異文化を理解し、英語で自分の考えを表現でき、世界を舞台にリーダーシップを発揮できるグローバル人材。そして、博士課程を修了した専門家や企業家などイノベーション(技術革新)を起こすことができる人材だ」

別に目新しい内容ではない。わざわざ言われなくても、国はとっくにそちらに舵を切り、グローバル人材とイノベーション人材、略して(略す必要もないけれど)グロ・イノ人材を育てるべく、主にその舞台となる大学に鞭打っているようにみえる。時に、「1大学5億円」という巨大なニンジンを鼻先にぶら下げ、「世界ランキングトップ10に入れ」なんて号令を出したりもして。

今、学生でなくてよかった、と思うのはこんな瞬間だ。生来の怠け者にはきつい空気が、キャンパスにも醸成されているからだ。まるで、グロ・イノ人材以外は要らない、とまで言われているように感じる場面もある。

先日、ある私立大学の非常勤講師のゼミを取材した。その大学では、高校時代まで勉強をしたことがない学生が大半を占め、1年生はまず学ぶ意欲を起こさないことには授業も進められない。そこで1年生のゼミを必修にし、新聞や短い文章を教材に読み書きの基本を学び、学ぶ習慣づけをしようとしている。ところが、多くの教員はそうした現状の改善に真剣に取り組まず、学生を小ばかにしている風潮がある。

その思いが学生に伝わり、教室の雰囲気はいつも殺伐としていて、授業中に立ち歩いたり大声で話したりの「学級崩壊状態」になっているのだという。

足を運ぶと、なるほど昼休み直後の時間ということもあって、ゼミの空気はダレ切っていた。チャイムがなっても学生はほとんど集まってこない。着席していてもまた「トイレ」と言って廊下に出てしまう。戻ってくると、隣の学生とおしゃべりを始める。

その姿に、そもそもなぜ大学にきているのだろうと疑問に感じ、尋ねてみた。いかにもヤンキーという金髪の男子学生は父親の命令だったという。建築業の現場で働く父親は、中学校しか出ていないため、苦労したそうだ。「親父は怖いから、言われた通りにした」とふてくされたような顔で話していた。隣で聞き耳を立てていた学生が、「オレも」と話に加わってきたことから、話の輪が一気に広がり、約20人の学生たちがそれぞれの歩みを語り始めた。

過去の話が出たついでに、将来の夢を尋ねると、ヤンキー学生は「実は」と恥ずかしそうに話し始めた。「まだ相手はいないけれど、結婚する。子どもは2人がいい。どっか安い所に一戸建てを買うんだ。奥さんと一緒に働いて」。すると、話の輪はさらに広がった。「子どもを育てるには、金がかかるよね」「塾だけでなく、習い事もさせたいよ」「そのためにはしっかり稼がなきゃ」。ふと見渡すと、誰も教室の外に出ていない。だが、どの顔も明るく、夢を語っていた。「そのために勉強するんでしょ」という講師の一言に、「そうだよな」「そうは言うけどさ」とちぐはぐな答えを返しながら、学生たちはチャイムが鳴っても教室から離れがたい表情だった。

グロ・イノ人材を目指す学生は、あの教室にはいなかった。だが、ささやかな幸せを夢見て、学びへの道を模索していた姿は、午後の教室の陽だまりの穏やかな空気とともに、今も心に残っている。

2014年10月19日日曜日

「思考停止」は卵の「殻」

IDE:現代の高等教育(2014年7月号)から、「みんなと同じ」をご紹介します。

先日ある学会の討論の場で、一人の国立大学教員が「最近の学生は思考停止している」と発言した。討論やグループワークを盛り込んだ授業でそれなりに「考えている顔」は見せるが、話を聞いてみると考えていないことがわかる、そもそも考えるという習慣が身についていないのではないか-という指摘に、ともにテーブルを囲む40人ぐらいの大学教職員は、なるほど、と大きくうなずいていた。

その光景を見ながら、東日本大震災の被災地、福島県の農村で出会った一人の大学院生の女性の姿を思い浮かべた。

早朝からひどい雨で、時々、雪も混じる寒い日だった。彼女は、教員や後輩の学生と一緒に、レインコートに長靴といういでたちで畑に座り込み、土や枯れた農作物を採取したり、土中の水分に含まれる化学物質を調べたりの作業に追われていた。

セシウムを吸収しない栽培法を研究し、原発事故で農業を再開できない農家の人たちを助けたい。その思いで2年以上、毎月、貯金を取り崩しながら通っているのだという。

顔も手も泥だらけになるのもいとわず、思いを語る姿に感銘を受け、その活動を書かせてもらいたいと話した。快諾してくれた。

ところが後日、彼女に電話をし、明日の紙面で記事が掲載されることを伝えたところ、意外な一言が返ってきた。

「私の年齢だけは書かないで」

大学に入るまでに2年浪人しているが、そのことは友だちや研究室の仲間にすら明かしていないというのだ。「修士1年で25歳は、おかしいじゃないですか」。電話の向こうの声は必死だった。

「おかしい」-その言葉が耳に残った。毎月被災地に通い、泥だらけになりながら調査を続けるという、だれにでもできるわけではない尊い活動を続けながら、なぜ、みんなと同じでいたいと望むのか。

「同じでいたい」は、言ってみれば思考停止だ。自ら考え、判断し、行動することは不要で、隣の人のふるまいをまねればいいだけ、そこには思考は働かない。

だがもしかすると、私たちはそれが当たり前の世界に生きているのかもしれない。何しろ、年齢で「すべきこと」が決められているのだから。6歳に始まる義務教育、その後は高校に進み、18歳で大学に入る。3年生になったら就職活動を始め、就職する。女性の場合はさらに、30歳になるまでに結婚し、出産し……。

「みんなと同じ」であることが大事とし、思考を停止させることは、子ども時代は、いじわるな級友から身を守り、先生から目をつけられないための隠れ蓑になる。出る杭は打たれる。決められたありようから外れることは、痛い目に遭う覚悟を伴うのだ。

だから、頭では彼女の言葉を理解できた。と同時に、胸が締め付けられる思いだった。浪人していた2年間を隠していて友だちと話が合っただろうか。何とか整合性が合うように、ずいぶんつらい思いもしたのではないか。

そう考えつつも、老婆心が邪魔をし、電話の向こうにいる彼女に、「それでいいのですか」と問いかけてみた。浪人の2年間は、人に言えない無意味な時間だったのか、この先もやはり○歳になったからこうしなければならない、で自分の人生を自分で縛っていくのだろうか、もったいないのではないかと。

彼女はしばらく考え、2年間にさまざまな人と出会い、自分の生き方に影響を及ぼしたこと、大学ではさらに多様な出会いがあり、年齢を言えない自分を苦しく思っていたことを、一気呵成に話し始めた。

小一時間も話しただろうか。彼女は「年齢を新聞に出してほしい。明日の新聞を、自分が変わった記念にとっておきたい」と言い切った。

今どきの学生を席巻するという「思考停止」はひょっとしたら、卵の「殻」かもしれない。じっくり考えて自分の意見を練り上げていくことは「みんなと同じ」でいることを許さず、息苦しい。今は、片時もスマホを手放さず、人とつながっているのが安全だ。だが、それを守る殻の中でヒナは成長し、外に出て翼を広げる時を待っている……。

その成長を促し、どう大きく育てるか。電話一本で殻にひびが入った大学院生と違って難しいが、やはり大学は面白い。

2014年10月18日土曜日

大学はどこへ行く

朝日新聞の天声人語「大学はどこへ行く」(2014年10月18日)をご紹介します。


下宿生活といえば、『男おいどん』という漫画を思い出す。松本零士(れいじ)さんが1971年から連載した出世作だ。主人公は九州から上京した苦学生、大山昇太(のぼった)。4畳半の部屋で貧乏に耐える。

洗濯していないパンツの山から、サルマタケというキノコが生えている。悩める青春、身ぎれいさからは遠い。村上春樹さんの『ノルウェイの森』が描く60年代末の都内の学生寮もまた、〈男ばかりの部屋だから大体はおそろしく汚い〉。

今の下宿暮らしはそんな哀感とは無縁だろうか。そもそも下宿生の割合が減っているらしい。実家から通える範囲で進学先を選ぶ傾向だ。都内のある私大ではこの10年余で自宅生が約1割増え、7割近くになった。

先日の本紙の報道によれば、大都市と地方の間で大学進学率の差が広がっている。一番高い東京と最下位県との差は40ポイントで、20年前の2倍。親には子を都会に送り出す余裕が乏しい。といって地元には通う先が少ない。大学が集中する都会との格差が拡大していく構造が見えてくる。

大学改革の方向も格差容認に傾いていないか。文科省は先日、「スーパーグローバル大学」を選んだ。旧帝大や早慶など37校が並ぶ。最大5億円の支援金を受け、世界の大学ランキングの100位以内を目指す。大学間の、そして都市と地方の間の溝がさらに深まる懸念がある。

選別する目的は経済成長であり、国際競争力向上という。勝ち組をもっと勝たせようという競争至上主義の発想であるなら、末恐ろしい。

2014年10月17日金曜日

首相発ではない地方再生を

ブログ「外から見る日本、見られる日本人」から地方の時代、私ならこう考える」(2014年10月07日)をご紹介します。


10月4日の日経夕刊のトップは「人口減 もがく自治体 移住・子育て支援、『消滅可能性都市』4割が予算増、『成果』2割どまり」とあります。つまり、地方再生に対して今一つ、成果がない、という事でしょう。安倍首相は今国会で地方再生を主題としようとしています。しかし、今のところ、これという決め手になるような話題は聞こえてきません。

日経によると地方都市が対策として打ち出しているものとして空き家対策、雇用場の確保、移住者積極的受け入れ、給付金、PR広報、Uターン促進といったものが並んでいます。個人的には全部、付け焼刃的な気がします。

地方の根本問題は若い人が都会に出てしまい、年齢構成が非常に悪いことが主因の一つだと思います。何故都会かといえば仕事と刺激を求めるわけです。ご近所は高齢者ばかりで子供の友達すらおらず、集落内のどこどこの誰ちゃんの噂話は家族内部情報よりも早かったりすれば若い人には居心地が悪いでしょう。

とすれば、まず、集落や町に年齢ミックスを作り上げなくてはいけませんが、今さらUターンといっても都会の高層ビルから田舎暮らしとなって何が不安といえば仕事がない、というのが私の知る30-40代の人たちの声であります。物価が安ければよい、空気がきれいならよい、広々とした家…といった魅力は一部の人には刺激になるでしょうが、本質的ではなく付随的理由な気がします。

私が以前から成功例として注目していたところをご紹介します。それは徳島県の神山町。グーグルの地図を見てもらえば分かりますが、徳島から剣山に向かって30キロも行く果てしなき田舎であります。私も四国はかなりぐるぐる回っていますが、ここはさすが山奥過ぎて行ったことがありません。しかしそこにはITベンチャーが9社も立ち上がったとか。

なぜ、徳島かといえば私の記憶が正しければ「一太郎」のソフトで有名なジャストシステムが徳島発であったことが大きな理由だったと思います。徳島とITというある意味、もっとも結びつきが少ない関係、ITと田舎という相反する関係が実はキーだったという事になります。そして、徳島県は200億円もかけて県内のすべての集落に光ファイバーを敷くのです。恐ろしいほどの賭けだったと思います。しかし、その結果、林業で細々と賄っていた神山町のようなところにIT、起業、若者、田舎暮らしという正に理想的な状況が生まれてきているのです。

これは年齢ミックスを作り上げた好例だと思います。私は神山町は極端な例にしても徳島県がITの県としてベンチャーがベンチャーを呼び込む形がつくられれば非常によい環境になると思っています。また、徳島県は実は関西地区まではクルマで2時間もあれば到着するアクセスの良さがあります。つまり、淡路島経由で一直線なのです。また、徳島の南の海岸沿いはサーフィンのメッカとしても有名で若者を惹きつける魅力は多いのではないでしょうか?

では徳島のような例を他県でどう展開していくか、でありますが、その地方にしかできない産業の育成の仕方もあるのではないでしょうか?例えば風力発電に適している県は単に発電施設を作るだけでなくその研究施設や関連企業を誘致するという事もあるでしょう。あるいは原発のある県には原発をいかに安全に稼働できるか、関連企業をインセンティブをもって誘致するのです。地熱発電もあるでしょう、北海道なら日本最先端の農業研究とか、食物工場を誘致するなどそれこそいくらでもアイディアは湧いてくるものです。

風力発電施設にしろ、原発施設にしろその施設の周りには人を近づけないようにしています。勿論、安全対策ではありますが、これはマーケティング的には逆にそこにその施設が存在することを覆い隠してしまい、町おこし展開できる機会を喪失しているともいえるのです。

つまり、私の地方再生案とはまず、その地方に特化した産業を掘り起こし、税などのインセンティブをつけたうえで10年、20年かけてそれを育成していくことだと思います。

シリコンバレーはサンフランシスコ郊外ですが、そこから始まった産業と街はどんどん北上し、サンフランシスコに向かって街が伸びてきています。これもある産業のきっかけから人や企業がどんどん集積していった好例であります。私のイメージする地方再生とはこういうことであります。いきなり空き家対策だとか、移住者誘致といっても無理な話なのですが、中央政府がそういう方針だから地方都市は否が応でも何かやらなくてはいけないという「いやいや感」が漂っているのであります。

本来なら政府が言うからやるのではなく、県なり地方都市が自主的に創造し、考え、実行するべきなのです。そこが欠如している気がします。ならば地方再生のキーとは地方の役人の人事刷新も効果的なのかもしれません。若い人たちしか持ちえないユニークな発想は結構価値があるものだと私は信じています。

地方再生、それは首相発でもないし、中央政府発でもないのです。国会の主題でもなく、もっと地元からの声を受けて中央が全面的サポートをするものではないでしょうか?

2014年10月15日水曜日

地(知)の拠点大学による地方創生事業

関係者の皆様におかれては、既にご案内のとおりですが、文部科学省所管の平成27年度概算要求の中に、「地(知)の拠点大学による地方創生事業」(80億円)という新規事業が盛り込まれています。

要求上の位置づけは、いわゆる「優先課題推進枠」要望となっていますが、この事業は、元々平成25-26年度の「地(知)の拠点整備事業」を組み替えた事業ですし、「地方創生」は、安倍政権の目玉政策の一つですので、予算編成過程で、要求事項そのものが無くなることは考えにくいところです。

最終的な予算規模や、具体的な選定スキームが未だ明らかではありませんが、既に公表されている以下のような資料に書かれたポイントを念頭に、情報収集、関連機関との調整、そして構想案の作成など、申請準備への早期着手が肝要です。





(参考1)地(知)の拠点整備事業(大学COC事業)(文部科学省)


(参考2)平成25年度 地(知)の拠点整備事業 採択大学一覧(国立大学)

単独申請

小樽商科大学
地域と共創する北海道経済活性化モデルと人材育成

岩手大学
地域と創る"いわて協創人材育成+地元定着"プロジェクト

宮城教育大学
宮城協働モデルによる次世代型教育の開発・普及

秋田大学
一人ひとりを大切にし、自立した高齢社会に向けた地域づくり

山形大学
自立分散型(地域)社会システムを構築し、運営する人材の育成

福島大学
原子力災害からの地域再生をめざす「ふくしま未来学」の展開

宇都宮大学
とちぎ高齢者共生社会を支える異世代との協働による人材育成事業

干葉大学
クリエイティブ・コミュニティ創成拠点・千葉大学

金沢大学
地域の感性を備えた人材を育て社会を繋ぐ「地(知)」の拠点

福井大学
地域を志向して人を育み、地域を活かす福井の知の拠点づくり

信州大学
信州を未来へつなぐ、人材育成と課題解決拠点「信州アカデミア」

岐阜大学
ふ清流の国、地x知の拠点創成:地域にとけこむ大学

京都大学
KYOTO未来創造拠点整備事業-社会変革期を担う人材育成

鳥取大学
知の発展的循環プロセスの構築による地域拠点整備事業

島根大学
課題解決型教育(PBL)による地域協創型人材養成

広島大学
平和共存社会を育むひろしまイニシアティブ拠点

香川大学
自治体連携による瀬戸内地域の活性化と地(知)の拠点整備

高知大学
高知大学インサイド・コミュニティ・システム(KICS)化事業

宮崎大学
食と健康を基軸とした宮崎地域志向型一貫教育による人材育成

琉球大学
ちゅら島の未来を創る知の津梁(かけ橋)

共同申請

京都工芸繊維大学
京都の産業・文化芸術拠点形成とK16プロジェクト

佐賀大学
コミュニティ・キャンパス佐賀アクティベーション・プロジェクト


(参考3)平成26年度 地(知)の拠点整備事業 採択大学等一覧(国立大学)

単独申講

弘前大学
青森ブランドの価値を創る地域人財の育成

茨城大学
茨城と向き合い、地域の未来づくりに参画できる人材の育成事業

山梨大学
食のブランド化と美しい里づくりに向けた地(知)の拠点づくり(仮称)

愛媛大学
地域の未来をステークホルダーと共に創る実践的人材の育成

熊本大学
活力ある地域社会を共に創る火の国人材育成事業

鹿児島大学
火山と島唄を有する鹿児島の地域再生プログラム~進取の精神を持つグローカル人材養成~


(参考4)開かれた大学づくりに関する調査(文部科学省)


2014年10月14日火曜日

研究費不正使用に係る間接経費の削減

過日改正された「研究機関における公的研究費の管理・監査のガイドライン(実施基準)」では、「組織の管理責任の明確化」に係る取組として、機関における不正調査の最終報告書提出の遅延や体制整備の不備に応じて競争的資金制度における間接経費措置額の削減を行うこととされています。

(関連記事)
「研究機関における公的研究費の管理・監査のガイドライン(実施基準)」の改正について(文部科学省)

文部科学省研究振興局長名で、「間接経費措置額の削減割合の基準等」が、各大学長等宛に通知されていますのでご紹介します。


1 体制整備に不備がある機関に対する間接経費措置額の削減について(ガイドライン第7節)

(1)間接経費措置額の酬減基準について

ガイドラインの第7節における「履行状況調査」及び「機動調査」の結果に応じて付与した「管理条件」(改善事項)について、文部科学省がその翌年度から実施する「フォローアップ調査」において履行が認められないと判断した場合は、「フォローアップ調査」の翌年度から表1のとおり間接経費措置額の一定割合を削減することとする。

また、文部科学省が実施する「履行状況調査」及び「機動調査」の結果、機関における体制整備に重大な不備があると判断した場合又は機関における体制整備の不備による不正と認定した場合は、管理条件(改善事項)を付与するとともに、その翌年度から表2のとおり間接経費措置額の一定割合を削減することとする。


(表1)「フォローアップ調査」の翌年度から間接経費措置額を削減する場合

「フォローアップ調査」の結果、「管理条件」(改善事項)の履行が認められない回数に応じた削減割合は、 1回→5%、2回→10%、3回以上→15%(表形式を小生において加工)

(注)間接経費措置額の15%の削減措置を講じている年度の「フォローアップ調査」において、管理条件(改善事項)の履行が認められない場合は、翌年度以降の競争的資金の配分を停止する。


(表2)管理条件(改善事項)付与の翌年度から間接経費措置額を削減する場合

「フォローアップ調査」の結果、「管理条件」(改善事項)の履行が認められない回数に応じた削減割合は、「管理条件」(改善事項)付与の翌年度→5%、1回→10%、2回以上→15%(表形式を小生において加工)

(注)間接経費措置額の15%の削減措置を講じている年度の「フォローアップ調査」において、管理条件(改善箏項)の履行が認められない場合は、翌年度以降の競争的資金の配分を停止する。


※「履行状況調査」、「機動調査」及び「フォローアップ調査」の結果については、文部科学省が研究機関及び配分機関に通知することとする。

※「フォローアップ調査」は、「管理条件」(改善事項)の着実な履行が認められるまで、対象機関に対して毎年度1回実施することとする。

※「管理条件」(改善事項)の履行期限(1年)は、「『管理条件』を付与した日」から起算することとし、「フォローアップ調査」は、履行期限到来後に実施することとする。

※「フォローアップ調査」において、「管理条件」(改善事項)の履行に進展がある場合及び履行が認められない場合は、履行期限を1年延長し、翌年度も「フォローアップ調査」を実施することとする。

※「管理条件」(改善事項)の履行が認められない回数について、付与した「管理条件」(改善事項)の履行が、前年度の調査と比べ進展がある場合は回数を計上せず、進展がない場合に回数を計上することとする。

※間接経費措置額の削減の対象となるのは、文部科学省及び文部科学省が所管する独立行政法人から配分される全ての競争的資金とする。


(2)間接経費措置額の削減措置等の解除について

間接経費措置額の削減措置の解除については、文部科学省が実施する「フォローアップ調査」の結果、「管理条件」(改善事項)の着実な履行又は履行に進展があると判断した場合に、その調査結果の通知をもって配分機関がその翌年度から解除することとする。

なお、配分の停止の解除については、文部科学省が実施する「フォローアップ調査」の結果、「管理条件」(改善事項)の着実な履行又は履行に進展があると判断した場合に、その調査結果の通知をもって配分機関が解除することとする。


2 機関における不正調査の最終報告書提出の遅延に係る間接経費措置額の削減について(ガイドライン第8節)

配分機関は、機関が告発等を受け付けた日から210日以内に、最終報告書が提出されない場合は、提出期限を過ぎた日数に応じて、表3のとおり間接経費措置額の一定割合を削減することとする。

ただし、最終報告書提出の遅延に合理的な理由がある場合は、当該理由に応じて配分機関が別途、最終報告書の提出期限を設けることとしており、その提出期限を過ぎた日数に応じて、表3のとおり間接経費措置額の一定割合を削減することとする。

(表3)提出期限を過ぎた日数に応じた削減割合は、
 30日未満→1%、60日未満→2%、90日未満→3%、120日未満→4%、150日未満→5%、180日未満→6%、180日以上→10%(表形式を小生において加工)

※最終報告書提出の遅延の対象は、不正に関する告発等のあった競争的資金のうち、平成26年度予算以降(継続も含む。)のものとする。

※間接経費措置額の削減については、不正に関する告発等があった競争的資金における翌年度以降の1か年度の間接経費措置額を対象とする。

※間接経費措置額の削減の対象となるのは、文部科学省及び文部科学省が所管する独立行政法人から配分される競争的資金のうち、最終報告書の遅延がある当該競争的競争的資金とする。

2014年10月13日月曜日

学校教育法・国立大学法人法等の改正に関する説明会

過日、大学のガバナンス改革を促進することを目的とした「学校教育法」及び「国立大学法人法」の改正等についてご紹介しました。

(過去記事)学長を育てる(2014年9月21日)

このたび、これらの改正を受け文部科学省が主催した「学校教育法及び国立大学法人法等の改正に関する実務説明会」の様子がyoutubeで公開されましたのでご紹介します。


法律改正の概要について




学校教育法改正の詳細について




国立大学法人法改正の詳細について

2014年10月9日木曜日

美しい日本語

池上彰の大岡山通信 若者たちへ 異国の地で知る日本語の美しさ~ロシアからの報告」(2014-09-29日本経済新聞)をご紹介します。


私たちはふだん、どれだけ意識して日本語を使っているでしょうか。美しい日本語を話そうとしているでしょうか。

そんな自戒をするきっかけを与えてくれる言葉に出合いました。ロシア・ウラジオストクでの出来事です。

「日本語は音楽のよう…」

今月初め、ロシアのハバロフスクやウラジオストクを取材しました。ウラジオストクの町は、2012年に開催されたアジア太平洋経済協力会議(APEC)に合わせて再開発が進みました。地元の極東国立大学と3つの大学を統合して極東連邦大学が誕生し、APECの会場を、そのまま大学の一部としました。

この大学の国際関係学部に日本語学科があります。日本語を学ぶロシアの若者は、どんな動機なのでしょうか。

私がインタビューした学生の多くは、親が日本との貿易に関係していて日本語の習得を勧められたとのことでしたが、1人の女子大生は違いました。

(学生) 「日本語は音楽のように美しい言葉なので、勉強したかったのです」

仰天しました。

私たちが日常話している日本語が、この女子学生には音楽に聞こえたのです。

で、勉強してみて、どうでしたか。

(学生) 「やっぱり美しい音楽だと思いました」

思わず頭(こうべ)を垂れてしまいます。私たちは、美しい音楽を奏でているでしょうか。

日本文学を学んでいるというので、好きな作家を聞くと、川端康成の名前が。なるほど。これは定番。『伊豆の踊子』かな『雪国』かな?

(学生) 「『山の音』です」

これまた絶句。

60歳を超え、老いを自覚するようになった実業家が、深夜に響く山の音を死の予告と恐れながらも、なおも恋心を燃やすという小説は、外国の女子大生には(日本の現代の学生にも)、理解が困難ではないかと思えるのですが。

川端文学の本質を示すのは、実はこうした作品群なのだと私は思っていましたから、そこまで把握している理解の深さに感動してしまいました。

造詣の深さ、恐るべし

気を取り直して、もう一問。他に好きな作家はいるかな?

「ハルキ・ムラカミ」の名前が出てほっとしたのですが、次に出た名前は円地文子でした。

村上春樹は、「ハルキ・ムラカミ」と発音しましたが、円地文子は、日本語の語順で「エンチ・フミコ」と発音しました。

まさかロシア極東の地で円地文子について語り合うことになるとは。

で、円地のどんな小説が?

(学生) 「『女坂』です」

うむむ。この日本文学への造詣の深さ、恐るべし。

いまどきの日本で、円地文子のことを知っている学生がどれほどいることか。

まだ学部の4年生だというのに、日本語は流暢(ちょう)でした。私には、彼女が発する日本語こそが音楽に聞こえたものです。

思い返せば、私の大学時代は、トルストイやツルゲーネフ、ドストエフスキーに傾倒。ロシア人作家の人間観の深さやロシア社会の複雑さに圧倒されました。

いわばその逆バージョンだと考えれば納得はできますが、この教養の深さに、さて、日本の学生は太刀打ちできるのでしょうか。「ヤバイ」「マジっすか」という日本語を常用している学生たちの姿を思い出してしまいました。

2014年10月8日水曜日

本気で学生に向き合うプロ

IDE:現代の高等教育(2014年8-9月号)から、「未来を駆ける高校生」をご紹介します。


いつの時代にも、同じようなつば迫り合いがあったのだろうと思う。大人たちは勝手な思い込みと的外れな妄想を膨らませ、一方的に決め事をする。心優しい子供たちは、それが良かれと思う親心に発することを重々承知している。空気を読む力に卓越したイマドキの高校生にとって、周りの大人を喜ばせるための演技などお手のもの。もちろん、物柔らかなうわべとは裏腹に、自分たちの大切な未来を生贄に捧げるような愚は冒さない。

大学選びもまた、例外ではない。中退率や就職率など、大学の情報公開を巡って議論が続けられている。経営計画に即した独自の位置づけのもとで、これらの数値をKPI(重要業績評価指標)として活用することは、いまや大学マネジメントの常識である。しかしながら、これらの数値の背後にある多義性や個別事情、画一的解釈がもたらす副作用等について考慮することなく、その一般公開を強制する政策に対しては懐疑的とならざるを得ない。無責任な放任の末路と、次世代を底支えするという使命感に基づく困難なチャレンジに必ず付随する限界としての中退とでは、意味するところは全く異なるからである。数字が一人歩きすることの問題性は、大学ランキングに対する批判のなかで繰り返されてきたではないか。

では、中退率など抽象的かつ高い多義性を有する数値の公開を義務づけることで、質保証に関わる責任から解除されるのか。高校生は、この実り少なき議論には全く見向きもせず、無機的な数値からは決して伺い知ることのできない生きた情報を、自分の足で収集する。過度の情報縮減を伴う数字を鵜呑みにしてはいけない、という情報リテラシー教育も、少しは貢献しているかもしれない。

高校生が本物の情報を収集するための絶好の機会となっているのが、オープンキャンパスである。このイベントを支える学生スタッフは、後輩に対して嘘をつかない。舞台となる大学では、正課を担う教員が活躍している。教員に加えて、少数ながらも学生のために本気で仕事に取り組むプロもいる。どのような困難な状況に陥っても、決して逃げることなく、当の学生が自己解決に辿り着くまで徹底的に寄りそう「人生の達人」。学生と共によりよい大学を創るべく、高度のノウハウと富裕なリソースを惜しみなく投入し動き続ける「プロの広報パーソン」。本気で学生に向き合うプロが仕事に取り組む姿勢に感化され、自らの進路を選択した高校生が、未来に向かって駆け抜けていく。(taste)

2014年10月7日火曜日

教授会の生き方

IDE:現代の高等教育(2014年10月号)から、「学長対教授会?」をご紹介します。


学校教育法が改正され、学長のリーダ一シップと教授会の法的位置付けが明確化された。これで大学改革が進むとなれば結構なことなのだが、学長の力が強くなりすぎるのではないかと危惧する声がある一方で、一番喜びそうな当の学長のなかから、逆に教授会の弱体化を危惧する声を聞く。なぜなのか。

確かに、学長が何か事を進めようとすると、その都度教授会の了解を取り付けなければならない。学校教育法の「重要事項を審議する」という現行規定が想定する範囲を、相当逸脱した実態にある大学は今なお少なくないと言ってよさそうだ。しかし、もしそうであれば、逆にいえば学長の能力差はあまり問われなくて済んだ、という見方もできなくはない。これからは、単純に教授会のせいといって済ますわけにはいかなくなる。改革が進まなければ、学長の責任がストレートに問われることになる。面倒な教授会が急に愛おしく思えてきた、ということかもしれない。しかし、事はそう単純でもなさそうだ。

教授会の実態は外からは見えにくい。しかも大学は多様だ。以前とはすっかり状況が変わった、という大学も少なくないだろう。同じ大学の中でも、学部によって雰囲気がずいぶん違うという話もよく聞く。アンケート調査などではよく見えない部分を含め、改革が進まないのは教授会があるからというよりも、実は別のところに原因があるというケースが少なくないのではないか。それにもかかわらず、学長のリーダーシップの最大の障害が取り除かれたのだからこれで問題が解決するはずと期待されても困る、ということかもしれない。

大学改革は、大学が社会の期待に応えて、その教育研究の成果をより適切に社会に還元する、ということのためにあるのだろう。それは、大学が就職準備機関になることでも、産業技術開発機関になることでもない。ましてや、ランキングを上げ、多くの学生を集めてシェアを拡大することでもない。では何をもって社会の期待に応えるのか。その方針を示すのが学長のリーダーシップの中核だろう。今の時代、それは容易なことではない。

だとすれば、学長のリーダーシップに最も必要なものは、その大学が抱える専門家集団の知恵であり、それを生むのが教授会であるはずだ。あきらめムードの漂う無気力な教授会では、学長のリーダーシップも実は成立しない。そう感じている学長も少なくないのではないか。(尚志子)

2014年10月6日月曜日

中教審軽視の大学ガバナンス改革

IDE:現代の高等教育(2014年7月号)から、「拙速な大学改革案の審議」をご紹介します。


2014年4月25日に、大学ガバナンス改革をめざす学校教育法改正案が閣議決定された。法案の成立の可否はこの稿が刊行されるときには明らかになっているだろう。法案そのものの内容についても検討する余地はあると思うが、ここで記しておきたいのは、この法案に関連する中教審の審議と立法過程についてである。詳細な検証は、高等教育政策研究者に委ねたいが、中教審の審議はすべて発言者名を含めて公開されているので、客観的に検証することが可能である。以下、議事録から審議の経緯をみたい。

この問題は、中教審組織運営部会では大学ガバナンスの問題として、2013年6月から12月まで7回審議された。審議の中で教授会を諮問機関にという委員の提案があるが、複数の委員はこれに反対しており、賛成する意見はみられない。また、続く12月の大学分科会では、学校教育法改正には賛成の意見は複数見られるが、諮問機関化の提案に対して、反対意見が特に大学関係者から出されている。しかし、12月の総会では、諮問機関化が再び提案されており、これについて文部科学大臣は、検討させていただきたいとしている。その後2月の大学分科会については、現時点では議事録が公開されていないので、どのような審議がなされたか不明である。2月や3月の総会では目新しい点は見られない。こうした中教審の審議の末、学校教育法改正案は、閣議決定されたのである。

以上が議事録から見た中教審の審議の経過であるが、学校教育法改正について、とりわけ教授会の諮問機関化について、委員の意見は必ずしも一致していないことは明らかである。しかし、このような中教審の審議とは別に、この法案については、首相の私的諮問機関である教育再生実行会議が主導的な役割を果たしているように思われる。既に、2013年5月の「これからの大学等の在り方について(第3次提言)では「教授会の本来の役割を明確化するとともに(中略)…学校教育法等の法令改正の検討」が提言されている。

さらにいえば、それ以前の政府の「骨太方針」や「新再興戦略」や文部科学省「教育振興計画」にも大学ガバナンスの改革が提案されており、現にこれらの動向については、第1回の組織運営部会に資料として配付されている。また、これらと並行して自由民主党も大学ガバナンス改革について提言を出している。

このように、詳細にみれば中教審でも改正についてとりわけ教授会の諮問機関化について委員の問でも意見が割れた。にもかかわらず、閣議決定までの経緯を見ると、中教審以前から改正ありという結論だったという疑念も拭いきれない。大学改革で拙速な議論は最悪だろう。大学改革について、このような審議のあり方は、将来に禍根を残すことが懸念される。(がいすと)

2014年10月5日日曜日

公正な研究の推進に向けて

理化学研究所における小保方問題など、近時、研究活動における不正事案が後を絶たず、大きな社会問題になっています。

この間、文部科学省では、「研究活動における不正行為」や「研究費の不正使用」に関する防止策についての検討が行われ、特に、研究活動における不正行為への対応については、以下のように、副大臣をトップとするタスクホースや、ガイドラインの見直し・運用改善等に関する協力者会議における検討を経て、このたび、ようやくガイドラインの見直しが行われたことはご案内のとおりです。

(文部科学省における検討の経緯)



(関係機関による提言等)



また、先月末には、東京と大阪を会場として、文部科学省によるガイドラインに係る説明会が開催され、出席者から入手した情報によれば、主に次のような内容の説明が行われています(ほぼ配付資料の内容と重なっておりますが)。

なお、新たなガイドラインは、平成27年4月1日から適用され、平成27年3月31日までをガイドラインの適用のための「集中改革期間」とし、大学等の研究機関は、期間内にガイドラインが求める規程の整備などを実施することが求められています。

また、今後、英語版のガイドラインが年度内に公表されるとともに、ガイドラインに関するQ&Aも10月中旬を目途に公表される予定とのことです。

(参考)説明会配付資料



(適用範囲等)

  • 新ガイドラインでは、研究活動における不正行為への対応強化の観点から、「研究者個人」だけでなく、今後は「研究機関」にも責任を課すことを明確化した。
  • 従来は、「競争的資金」を活用した研究活動のみを対象としていたが、昨今、運営費交付金等の基盤的経費により行われた研究活動においても不正行為が認定されていることから、新ガイドラインでは、「基盤的経費」により行われる研究活動についても対象とした。なお、「基盤的経費」により行われた研究活動における不正行為に係る「研究費の返還等」に関する措置については、新ガイドラインでは一律に対応を定めていないため、各研究機関において適切に対応することになる。
  • 新ガイドラインは、平成27年4月1日から適用されるため、平成26年度以前の予算における研究活動による不正行為については対象外となるが、競争的資金の配分機関等がそれぞれのルール等に基づき措置を講じることを妨げるものではない。また、平成26年度以前の予算における競争的資金において不正行為が発生した場合は、旧ガイドライン等に基づき、競争的資金の返還、競争的資金への申請及び参加資格の制限の措置が行われることになる。
  • 文部科学省以外の「他府省」が配分する競争的資金等による研究活動の不正行為については、他府省から示されるガイドライン等に基づき対応することになる。なお、今後、文部科学省のガイドラインが示す対応策について関係府省においても統一的な運用がなされるよう働きかけを行う。
  • 「企業等」からの受託研究等による研究活動の不正行為については、企業における自己資金を原資とした研究ではあるが、公正な研究活動を推進するため、不正行為が発生した場合は、各研究機関において適切に対応すること。


(研究者の範囲)

  • 学生は、原則として研究者には含まれないが、競争的資金等を受給するなど、文部科学省の予算の配分又は措置により研究活動を行っている場合には、ガイドラインの対象となる(研究者とみなす)。
  • ガイドラインは、研究活動における不正行為への対応等を定めたものであるため、大学院教育の一環として作成される学位論文における不正行為は、ガイドラインの対象外となる。


(不正行為の定義)

  • 研究活動における不正行為とは、研究者倫理に背馳し、研究活動、研究成果の発表において、その本質ないし本来の趣旨を歪め、科学コミュニティの正常な科学コミュニケーションを妨げる行為である。なお、ガイドラインでは、「故意又は研究者としてわきまえるべき基本的な注意義務を著しく怠ったことによる、捏造、改ざん、盗用」に限定している。このうち、「研究者としてわきまえるべき基本的な注意義務」については、分野に応じた具体的な検討が必要であるため、現在、日本学術会議に指針作成を依頼中である(年明けに中間まとめが公表される予定)。
  • 「捏造、改ざん、盗用」については、ガイドラインに基づき、告発や調査の対象となり、不正行為と認定された場合には、研究者や研究機関に対して競争的資金等の返還などの措置が行われる。
  • ガイドラインの対象とはならないが、他の学術誌等に既発表又は投稿中の論文と本質的に同じ論文を投稿する「二重投稿」、論文著作者が適正に公表されない「不適切なオーサーシップ」などの不正行為については、分野に応じた具体的な検討が必要であるため、現在、日本学術会議に対して審議を依頼中である(こちらも年明けに中間まとめが公表される予定)。


(各研究機関における対応)

  • 研究活動における不正行為は、研究活動とその成果発表の本質に反するものであり、科学そのものに対する背信行為であることから、個々の研究者はもとより、大学等の研究機関は、不正行為に対して厳しい姿勢で臨むこと。
  • また、大学等の研究機関が責任を持って不正行為の防止に関わることにより、不正行為が起こりにくい環境がつくられるよう対応の強化を図ること。特に、組織としての責任体制の確立による管理責任の明確化、不正行為を事前に防止する取組を推進すること。
  • 研究活動における不正行為の疑惑が生じたときの調査手続や方法等に関する規定等(①不正行為に対応するための責任者の明確化、②責任者の役割や責任の範囲、③告発者等の秘密保持の徹底、④告発後の具体的な手続きの明確化、⑤不正行為の調査の実施などについての文部科学省等への報告義務化等)を整備し、公表すること。
  • 不正行為の告発の受付から事案の調査(予備調査、本調査、認定、不服申立て、調査結果の公表等)までの手続き・方法(①告発・相談窓ロの設置・周知、②調査期間の目安・上限の設定、③調査委員会に外部有識者を半数以上入れること(利害関係者の排除を含む)、④調査委員会が必要と認める場合、調査委員会の指導・監督のもと再現実験の機会を確保、⑤調査の専門性に関する不服申立ては、調査委員を交代・追加等して審査等)についても規定すること。
  • 組織の管理責任を明確化する観点等に鑑み、調査結果についてどこまで公表すべきかは、各調査機関で判断すること。


(研究倫理教育の実施)

  • 大学等の研究機関は、「研究倫理教育責任者」を部局ごとに配置するなど、必要な体制整備を図り、広く研究活動にかかわる者を対象に、定期的に研究倫理教育を実施すること。
  • ガイドラインに定める「研究倫理教育責任者」と、研究費の不正使用防止に係るガイドラインに定める「コンプライアンス推進責任者」は、各ガイドラインで示される研究倫理教育やコンプライアンス教育の着実な実施に対応するための責任者であり、それぞれについて設置すること。ただし、それぞれの対応が行われれば、同一者でも可能。
  • 研究倫理教育の受講対象者は、基本的には「研究者」を想定しているが、将来研究者を目指す人材や研究支援人材など広く研究活動に関わる者についても、業務や専門分野の特性等も踏まえ、研究倫理教育を受講できるよう、適切に配慮すること。
  • 研究機関に所属する研究者に対しては、文部科学省が日本学術会議及び日本学術振興会と連携して作成する標準的な倫理教育プログラムと同等の研究倫理教育を実施すること。なお、研究者の負担軽減の観点から、競争的資金の配分機関が一義的に受講することが望ましいプログラムを示していた場合でも、別のプログラムを受講していた場合、内容的に同等であれば代替可能となるよう今後調整する予定。
  • 文部科学省は、現在、日本学術会議及び日本学術振興会と連携し、研究倫理教育に関する標準的なプログラム(テキスト版)を作成中であり、10~11月上旬には公表する予定。また、e-learning(電子)教材の開発を平成27年度に行い、平成28年度から運用できるよう、平成27年度概算要求中(研究公正推進事業)である。研究機関は、これらの内容や既に研究機関において先行的に実施しているプログラムを参考に、機関の実情に合ったプログラムを選定し、研究倫理教育を実施すること。
  • 大学においては、学生の研究者倫理に関する規範意識を徹底していくため、学生に対する研究倫理教育の実施を推進すること。学生に対する研究倫理教育の提供方法及び内容については、各大学の教育研究上の目的及び専門分野の特性に応じて、標準的な倫理教育プログラムや大学間が連携して作成した教育プログラム(例:CITI Japan)に準じた教育を行うことが望ましい。


(研究データの保存・開示)

  • 研究データの保存対象や期間については、分野に依る部分が大きいため、現在、日本学術会議に対し分野ごとの保存期間や方法について、一定の指針を示すよう審議を依頼中である(年明けに中間まとめが公表される予定)。
  • ガイドライン上は、平成26年度以前の研究データの義務付けはなされていないが、故意による研究データの破棄や不適切な管理による紛失は、責任ある研究行為とはいえず、また、不正行為の疑いを受けた場合に自己防衛ができなくなるため望ましいものではない。なお、平成18年ガイドラインから、不正行為の疑惑への説明責任は研究者に課されており、データの不存在により証拠を示せない場合は不正行為と認定されることがある。


(不正行為・管理責任に対する措置)

  • 不正行為に対する研究者、大学等の研究機関への措置としては、①不正行為に係る競争的資金等の返還、②競争的資金等への申請及び参加資格の制限がある。なお、競争的資金等のみならず、運営費交付金等の基盤的経費により行われた研究活動の不正行為も対象となる。
  • 組織としての管理責任に対する大学等の研究機関への措置としては、①研究活動における不正行為への対応体制の整備等に不備があることが確認された場合、文部科学省が「管理条件」を付与、②管理条件の履行が認められない場合、機関に対する「間接経費」を削減等、③正当な理由なく不正行為に係る調査が遅れた場合、「間接経費」を削減する。


(履行状況調査)

  • 履行状況調査の実施方針等については、毎年度定めることになるが、対象機関の選定に当たっては、不正行為の事案が確認された機関のほか、競争的資金の受給状況等を基に一定数を抽出する。
  • 実施時期については、調査対象機関の準備期間等を考慮して適切に定める(平成27年度は、施行初年度ということを勘案し、夏以降の実施を予定)。
  • 調査対象は、不正行為の事前防止のための取組みや、研究活動における不正行為への対応のための規定・体制の整備状況など、ガイドライン上求められている事項の全てについての実施状況であり、具体的には、今後、外部有識者からなる委員会において、履行状況調査に係る指針を定めて対応することになるが、研究倫理教育に関しては、「研究倫理教育責任者」が設置されていることや、研究機関に所属する研究者に対して、文部科学省が日本学術会議と学術振興会と連携して作成する標準的な倫理教育プログラムと同等の研究倫理教育がなされていることなどを確認する予定。


(管理条件の付与)

  • 管理条件とは、機関の体制整備等の状況について調査した結果、ガイドラインが求める事項を実施するための規程等が整備されていない場合、また、規程等は整備されているが、それに基づき実施されていない場合に、個別に改善事項とその履行条件を示して付与するもの。
  • 措置を講じるに当たっては、有識者による検討を踏まえるとともに、機関に対して弁明の機会を付与する。
  • 間接経費の削減については、従来、研究者個人に委ねられていた研究不正への対応について、研究機関も責任を持って不正行為を事前に防止するための体制を整備する観点から、これらの対応を研究機関が適切に実施できていないと認めた場合には、一定の管理条件を付した上で、管理条件の履行が十分でないと判断した場合には、組織としての責任体制の確保を求める観点から、不正行為に無関係な部局や研究者を含む研究機関全体を対象として間接経費を削減する。


さて、大学等研究機関においては、今後、改訂されたガイドラインを踏まえ、文部科学省が称する「集中改革期間」である今年度内に、関連規程等の整備、研究倫理教育の実施に向けた体制整備、研究データの保存・開示に係るルールづくりなど多くの作業を進めなければなりません。

研究費の不正使用防止に係る作業とは大きく異なり、今回は研究者サイドの協力が欠かせない全学的な作業になります。ある意味では教職協働の真価が問われる一つの事例になるのかもしれません。

作業を効率的・効果的進めるためにも、他大学の状況を知っておくのは大切なことではないかと思います。そこで、全ての国立大学のサイトをのぞいてみました。研究活動における不正防止の取組みに関する専用ページを公表している大学を以下にご紹介したいと思います。(リンクのない大学は小生の調査不足により見つけることができなかったものが含まれます。ご連絡いただければ追加させていただきます。)

多くの大学が、①研究者の行動規範や指針、②関連規程、③規程を補完するガイドラインやマニュアル、④理解を深めるためのリーフレットやハンドブックなどを整備し、体系的に整理した上で関連資料とともに公表していました。また、不正事案が発生した場合の通報窓口や通報の方法等について丁寧に説明している大学も多数見受けられました。

なお、調べる過程で感じたことですが、①研究費の不正使用防止に関する専用ページはしっかり作成されてあるものの、研究活動の不正防止については作成されていない大学が散見されました。担当事務組織の縦割り仕事や力量の影響でしょうか。②単科大学など比較的小規模の大学がしっかりとしたページを作成していることが意外でした。逆に、比較的研究規模の大きい大学でも、専用ページがなかったり、関連規程がPDF版でそれとなく貼り付けてあるだけの大学も見受けられました。③研究不正事案の通報窓口が不明確な大学も散見されました。公益通報窓口と同じなのか、別の窓口を設けているのかを明確にしておく必要があります(そもそも公益通報窓口すら公表されていない大学もありました。これはゆゆしき問題です。)。

関係者の方々におかれましては、いい機会ですので、一度自大学の状況を確認されてはいかがでしょうか。危機管理、コンプライアンスの推進、あるいは社会に対する説明責任等の観点からも、とても重要なことだと思いますし、奇をてらう大きな改革よりも、まずは、足元からの改革が必要ではないでしょうか。

<北海道・東北地区>



<関東・甲信越地区>



<東海・北陸・近畿地区>


<中国・四国地区>


<九州・沖縄地区>

2014年10月3日金曜日

日本人は何と不幸なのだろか

ブログ「人の心に灯をともす」から日本に生まれただけで幸せ」(2014-09-23)をご紹介します。


「日本人に生まれただけで幸せ」という私の意向に疑問を感じる愛すべき人のために、少し触れておきたいことがある。

国連世界食糧計画(WFP)の調査によれば、現在世界の死因の第一位は「飢餓」である。

約70億といわれる世界人口のうち10億人近くが飢餓に苦しみ、毎日平均2万5千人もの5歳未満の子供が飢餓を原因とする病気で死亡する。

時間に直すと6秒にひとりの子どもが、飢えを原因として命を失っているのだ。

ちなみに、日本の5歳未満の乳幼児の死亡率は1千人中6人。

その死因は病気や事故、虐待であって、飢餓ではない。

あなたはこれまでの人生の中で、餓死しそうになった経験があるだろうか。

あるいは、身近に餓死した知り合いがいるだろうか。

先の戦争を経験した世代を除けば、イエスと答える人はほとんどいないと思う。

日本人はたとえホームレスになったとしても、自分で普通に体を動かせる限り、餓死する心配はほとんどない。

残念なことに、GDP世界一の我が母国アメリカ合衆国といえども、最下層では餓死が十分あり得る。

あなたは、日本人として生まれただけで幸せなのである。

あなたが今、自分のことを不幸だと感じているとしたら、その最大の原因はあなたの視野と度量にある。

それは目の前の幸せな現実が見えないからである。

ほんの少し視野を広げるだけで、自分は幸せだと気付くことが出来る。

そうすれば身辺や目先に多少の問題を抱えていたとしても、解決に向けて積極的に行動することができる。

広い世界の現実を知れば、自分がいかに小さな問題で悩んでいるのかに気付くことになる。

日本語が読めるというだけでも、実にありがたいことである。

子どもの頃、学校も勉強も大嫌いだった人もいるだろう。

しかし、日本の義務教育制度の恩恵を受けたからこそ、基本的な日本語の読み書きには不自由しないし、恐らく掛け算の九九も暗記しているだろう。

ニジェールなどアフリカ南部の貧しい国では、2人にひとりの子どもが勉強したくとも小学校にすら通えない。

ネパールでは1日に100円にも満たない収入を得るために、学校にも行けず過酷な労働を選択せざるを得ない子どもが少なくない。

そして、2人にひとりの子どもは栄養失調状態である。

ハイチは、識字率が約50%である。

国民の2人にひとりは文字が読めないのである。

さて、「日本に生まれただけで幸せ」と明言したにもかかわらず、実は私は、戦後の日本に生まれた日本人は何と不幸なのだろかと真剣に思うことがある。

その理由は、「私は自分の国を愛している」「日本に生まれたことを誇りに思う」「日本に愛国心を持っている」と堂々といえないような雰囲気が、この日本社会全体に霧のように漂っているからである。

国民が祖国に愛国心を持つことは、本来なら当たり前の話である。

子どもが母親のことを好きなように、そして母親が我が子を慈しむように、自分が生まれた国を好きだと思う気持ちは自然に、本能的に湧いてくるものである。

そして、日本という国以外、世界中の誰もがその感情、つまり、愛国心を素直に言葉に表現しながら日常の生活を送っている。

ところが日本人の場合、「私は日本が大好きだ!」と堂々というと、周囲の典型的な反応は、「あなたは右翼ですか?」というものである。

面白いことに、私のような外国人が、「私は日本が大好きだ!」というと、それに対して日本人は例外なく嬉しそうな反応を示す。

「そうですか!日本のどういうところが好きですか?」と、誰もが食いついて来る。

本当は、日本人は日本のことが大好きなのだと思う。

自分の国を誇りに思っているし、心の中には愛国心も持っている。

事実、統計数理研究所の2008年度の調査では、「生まれかわるときにどこか好きな国を選べるとしたら、あなたはもう一度日本に生まれてきたいと思いますか、それとも、どこかよその国に生まれてきたいと思いますか?」という質問に対して、77%の人が、「日本に生まれてきたい」と答えている。

ところが日本人は、この素晴らしい祖国への愛国心を自信を持って対外的に表現することに、抵抗を感じている。

その理由は簡単で、戦後教育や日々の報道を通じて、そのように「洗脳」されてしまったからだ。


「漢字かな交じり文」という、世界中の言語表記方法の中で最も読解が難しい文章を読み、理解している、というだけで日本人は十分すぎるほど幸運で幸せな人間である、とケント・ギルバート氏は言う。

また、ギルバート氏は自身の「君が代を歌えますか?」と題するブログの中でこう語っている。

『国旗や国歌というものは、国家の象徴であり、その国に属する人々の愛国心の象徴です。

だからこそ国旗や国歌は、自国のものであっても、他国のものであっても、誰もが無条件で大切に扱うべき存在だと私は考えます。

それを無視したり、軽んじたり、増してや国旗を踏みにじったり、燃やしたりする人々は、周囲の人に「軽蔑」以外の何を求めているのでしょうか。

国歌斉唱時に脱帽や起立しない人々も同様だと私は思います。

ちなみに私はアメリカ人ですが「君が代」を歌えますよ。

六本木男声合唱団倶楽部の一員として、東京マラソンの開会セレモニーで何度も国歌斉唱をしています。

ですから最近は「君が代」を歌えない日本人が珍しくないという話を聞いたときは驚きました』

日本に対する誇りと愛国心を、もっと深めたい。


2014年10月2日木曜日

蓮の花は、にごった泥の中でしか咲かない

ブログ「人の心に灯をともす」からキズのあるリンゴ」(2014-09-18)をご紹介します。


青森へ行った帰りに、朝市に寄ってリンゴを買った。

キズのあるリンゴを売っているおばあさんがいる。こちらが、

「キズのあるリンゴの方が甘いんですよね」

と言うと、おばあさんが、

「東京のひとのようだけど、よくごぞんじです。みんなにきらわれています」

という意味のことを土地の言葉で言った。

うれしくなってもち切れないほど買ってしまった。

キズのついたリンゴ。

なんとかそれをかばおうとして、力を出すのであろう。

無キズのリンゴよりうまくなるのである。

キズのないリンゴだってなまけているわけではないが、キズのあるリンゴのひたむきな努力には及ばないのか。

人間にも似たことがある。

試験を受ければ必ず合格、落ちるということを知らない秀才がいるものだ。

他方では落ちてばかりいる凡才がたくさんいる。

もちろん、秀才の方がえらくなるけれども、落第ばかりしていた人が、のちになって、たいへんな力を発揮、かつての秀才を追い抜くことも、ときどき起こる。

若いときに失敗をくりかえすような人は、はじめはパッとしない。

しかし、いろいろな経験を重ねているうちに、実力があらわれる。

ちょっとした失敗は人間ならだれしもあることだが、失敗したことのない秀才、エリートは、なんでもないミスで破滅したりする。

K氏は大組織のトップであった。

その前は官僚として最高のコースをのぼりつめた大物だった。

あるとき、その組織でちょっとしたトラブルがおこった。

K氏は「私は相談を受けていない。知らなかった」と言った。

責任回避。

トップに相談しないで、できることではないのは内部の者には明々白々である。

しかし、苦労を知らないK氏は、もっともまずい、言いのがれをした。

たちまち一般からの非難を浴び、やめたくないポストを投げ出さざるを得なくなった。

失敗を知らない、すばらしい経歴がアダになったのである。

K氏は幸福すぎたために不幸になった。

H氏は家が貧しく、小学校すらロクに出なかった。

昔だから、そんなことが許されたのであろう。

両親が早く亡くなり、いろいろつらい目にあいながら、二十歳になるかならずかのとき世界的発明をした。

ところが関東大震災でハダカ同然になり、さらにあくどい同業者から商売をうばわれるといったこともあったが、H氏は、めげず、へこたれず、努力をつづけて大企業を育てた。

いくつものキズを受けながら、それを乗り越えて大器になったH氏は、普通の人間に勇気を与える。


蓮(はす)の花は、にごった泥の中でしか咲かない。

人も同じで、幾多の失敗や試練をくぐりぬけ、泥水をかぶって生きてきた人ほど、真の強さがあり、深い人間味(にんげんみ)という花を咲かせることができる。

キズのあるリンゴの方が旨い、ということだ。

深みがあるというのは、振幅のおおきさが大きいということ。

成功と失敗の落差、幸福と不幸の落差、楽しさと悲しさの落差…

落差が大きければ大きいほど、人生というドラマは盛り上がる。

そして、人は、それらを乗り越えるたびに、深い魅力的な人間となる。

深くて魅力ある人でありたい。


2014年10月1日水曜日

サービスのモノ化

ブログ「人の心に灯をともす」から製造業のサービス業化とサービス業の製造業化」(2014-09-19)をご紹介します。


サービス業のリーディング・カンパニーといえば、ディズニーランドを想起する人は多いだろう。

オリエンタルランドが経営する東京ディズニーランドリゾートの収入を見ると、日本独自のビジネス手法が見えてくる。

東京ディズニーランドの2013年の売上高は3298億円で、その内訳はアトラクション・ショーの収入が約43.6%、商品販売収入が36.4%、飲食販売収入が約18.8%、その他の収入が1.2%という構成になっている。

米国を始めとする海外のディズニーランド関連施設と比較して、日本ではキャラクター・グッズに代表される商品販売の売上構成比が非常に高い。

日本人は、どこかに出かけるとお土産を購入することが多い。

リピーターの構成比が高い東京ディズニーランドであっても、人々がグッズをたくさん購入していることがわかる。

もし、東京ディズニーランドがキャラクター・グッズに力を入れていなければ、売り上げの4割近くを失ってしまうことになる。

サービス業における「モノづくり」が、いかに企業の収益に貢献するかがわかる。

日本のGDPに占める製造業の割合は年々低下し、2008年の段階ですでに19.8%と2割を切っている。

一方で、同年のサービス業の比率は70%を超えている。

これを額面通り受け取ると、製造業に代わって、サービス業が日本を牽引する産業になっているように考えられそうだが、それは一面的な見方だ。

これまでの日本の産業構造と成長の軌跡から考えると、日本に必要な視点は「製造業はサービス業化」を図り、もう一方で「サービス業は製造業化」に取り組むことにある。

日本の製造業は単にモノを製造し販売するだけでなく、モノの製造から生み出された知的資産をモノ化(モノの製造からソフトウエアやシステムを生み出し、それをモノ化する)させるところから始まった。

続いてモノとサービスを組み合わせたビジネスモデルが考案された。

さらに、製造業は自社の資源(ブランドやノウハウ)を生かしてサービス業に進出している。

近年、製造設備を持たず、製品の企画設計やマーケティングだけを自社で行い、製造は外部に委託するアップル社のような「ファブレス化」の動きも出現している。

サービスとモノの組み合わせとしては、自社が持つノウハウをソフトウエア化、コンテンツ化する取り組みがなされている。

サービス業が製造業化に取り組んだ事例として、「佐賀県武雄市」を紹介する。

自治体が民間企業の発想を取り入れてハコモノ行政を改革し、税収を増やした成功事例である。

『官が「モノ化」させると「ハコモノ」になり、大半が多額の税金を流出させる厄介者になる』

国や地方自治体が施設をつくって運営すると、うまくいかないケースが非常に多い。

しかも、本来収益を上げるべき施設が収益を生み出さない場合は、赤字を補填(ほてん)するため、多額の税金が使われてしまう。

国や地方自治体の施設が収益を生み出せない最大の原因は、施設の運営者が公務員だからだ。

役所は、自らの手で収益を上げる大変さを身をもって知る人材が少なく、税収によって捻出された予算を使う(消化する)ことに長じた人たち(公務員)によって構成されている。

お金を稼ぐ苦労を知らない人材が、マーケティングを行えるはずがない。

そのため、自治体の経営がうまく行くかどうかは、首長となる人材の力量とリーダーシップに、大きく依存することになる。

一つめのハコモノ「市民病院」を改革。

もう一つのハコモノ「図書館」を改革。

武雄市は「アウトソーシング」発想を取り入れ、民間企業の力を活用して病院と図書館という施設をサービスのモノ化で活性化させ、地元の魅力を高めて、税収を増やす資源に転換した。


サービス業の製造業化というと、すぐに思い浮かぶのが日本のユニクロやアメリカのギャップ。

SPAという、製造から物流、販売までを手掛ける小売り業態のことを言う。

今や、一つの専門性だけを売りにする会社や業態は生き残るのが難しくなった。

クロスオーバーの発想、すなわち異なる分野を組み合わせて新しいモノやコトを作り出すことが、あらゆる創造的な分野において不可欠となっている。

なぜなら、ITの浸透により、時代の変化が加速度的に進んでいるからだ。

事業においては、「製造業のサービス業化とサービス業の製造業化」、個人においては、「専門分野を二つ以上持つ」というようなチャレンジが必要だ。

頭を柔らかくし、常に新たな発想で臨みたい。