2014年10月7日火曜日

教授会の生き方

IDE:現代の高等教育(2014年10月号)から、「学長対教授会?」をご紹介します。


学校教育法が改正され、学長のリーダ一シップと教授会の法的位置付けが明確化された。これで大学改革が進むとなれば結構なことなのだが、学長の力が強くなりすぎるのではないかと危惧する声がある一方で、一番喜びそうな当の学長のなかから、逆に教授会の弱体化を危惧する声を聞く。なぜなのか。

確かに、学長が何か事を進めようとすると、その都度教授会の了解を取り付けなければならない。学校教育法の「重要事項を審議する」という現行規定が想定する範囲を、相当逸脱した実態にある大学は今なお少なくないと言ってよさそうだ。しかし、もしそうであれば、逆にいえば学長の能力差はあまり問われなくて済んだ、という見方もできなくはない。これからは、単純に教授会のせいといって済ますわけにはいかなくなる。改革が進まなければ、学長の責任がストレートに問われることになる。面倒な教授会が急に愛おしく思えてきた、ということかもしれない。しかし、事はそう単純でもなさそうだ。

教授会の実態は外からは見えにくい。しかも大学は多様だ。以前とはすっかり状況が変わった、という大学も少なくないだろう。同じ大学の中でも、学部によって雰囲気がずいぶん違うという話もよく聞く。アンケート調査などではよく見えない部分を含め、改革が進まないのは教授会があるからというよりも、実は別のところに原因があるというケースが少なくないのではないか。それにもかかわらず、学長のリーダーシップの最大の障害が取り除かれたのだからこれで問題が解決するはずと期待されても困る、ということかもしれない。

大学改革は、大学が社会の期待に応えて、その教育研究の成果をより適切に社会に還元する、ということのためにあるのだろう。それは、大学が就職準備機関になることでも、産業技術開発機関になることでもない。ましてや、ランキングを上げ、多くの学生を集めてシェアを拡大することでもない。では何をもって社会の期待に応えるのか。その方針を示すのが学長のリーダーシップの中核だろう。今の時代、それは容易なことではない。

だとすれば、学長のリーダーシップに最も必要なものは、その大学が抱える専門家集団の知恵であり、それを生むのが教授会であるはずだ。あきらめムードの漂う無気力な教授会では、学長のリーダーシップも実は成立しない。そう感じている学長も少なくないのではないか。(尚志子)