再建に向けた寄付活動も始まっています。
沖縄のシンボル「首里城」再建支援プロジェクト
琉球人と歩んできた首里城 アジアに開かれた交流の場
首里城焼失の報を知ったのは、取材のため那覇に滞在中のことだった。早朝、縁戚からの電話は「首里城が燃えて……」と言ったまま途切れてしまい、テレビをつけたものの、画面に映る光景を現実として受け止めることができなかった。
ずっと一緒に生きてゆけると信じていた人が、突然この世を去っていったような、今なすべきことさえ思いつかないような、そんな感覚だった。
首里城の創建は14世紀末にさかのぼるともされる。統一王朝・琉球王国が誕生したのち、歴代の王によって整備されていった。うねる石垣に囲まれて建つ城は、威容を誇る城ではなく、争いのための城でもない。遠く海を渡ってやって来る人たちを迎えるための城であり、波涛(はとう)を越えていった琉球人の城だ。15世紀、王国は絶頂期を迎えたが、こののち幾多の困難に見舞われた。
それでも首里城は、政治・行政の要として機能し、外交・貿易の拠点として、さらには琉球文化発信の場としての役割を担ってきた。
だが、いわゆる「琉球処分」によって王国は解体され、明治政府の軍隊と警察隊の威圧によって接収されてしまう。のちに首里区(当時)に払い下げられ校舎として使用されたが、城は荒れ果てる一方だった。
大正末期、美術教師として首里に滞在した香川出身の鎌倉芳太郎は、沖縄の人々と深く交流するなかで琉球文化に魅せられ、なかでも首里城には「教わることがたくさんある」と語った。彼は断続しながらも16年におよぶフィールド調査をし、多数の資料やガラス乾板写真を残した。鎌倉の尽力もあって、大正14年に首里城は現在の国宝に指定され、大規模な修理もなされた。
しかし、沖縄戦が何もかも破壊し、首里城は姿を消した。城跡には琉球大学が建てられ、沖縄は27年におよぶ米軍施政下を生きなければならなかった。この間にも首里城復元の声が絶えることがなかったのは、城が王国の歴史文化を伝える象徴としてだけではなく、琉球人・沖縄人の足跡を雄弁に物語る場としての意味が大きかったからだ。
沖縄では祖先の人生がいきいきと語りつがれていることに驚くばかりだが、さまざまな困難に直面しながらも生きた人々の存在があって、今の私たちが生まれたことを実感させてくれる。
琉球大学のキャンパスが移転したのち、首里城復元のプロジェクトが進められた。戦争によって失われた史料は膨大だったが、多分野の英知を結集したプロジェクトメンバーは、それを嘆くばかりでなく、わずかな手がかりから丹念な調査と研究を続け、復元を成しとげた。鎌倉芳太郎が残した資料やフィールドノートも活用されたが、何より多くの沖縄県民の協力が大きな支えとなったことは言うまでもない。
首里城復元から27年の歳月が流れ、子どもの頃から「赤い城」を見て育った世代も増えてきたことをうれしく思うようになったその時、焼失という悲劇を体験することになってしまった。
私も数えきれないほど訪れた首里城が崩れ落ちた光景を見るのは、胸がえぐられるように辛い。今はこの深い悲しみのなかに沈むことしかできない。けれど首里城は沖縄の人々だけの城ではない。日本の歴史のなかに琉球史を組み入れた時、アジア諸国と交流し、豊かな文化を築いた国のあり方が見えてくるだろう。首里城は現代の私たちにそれを語りかけてきた。(与那原恵)
琉球人と歩んできた首里城 アジアに開かれた交流の場|日本経済新聞 から