答申案では、大学生の学習時間が諸外国に比べ少ないとして、授業の関連性を分かりやすく整理して学生に示し、効率よい授業編成をするなど、カリキュラムの改善を進めるシステムの確立が求められています。
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関連して、桜美林大学大学院・大学アドミニストレーション研究科教授の山本眞一さんが書かれた「大学改革の陥穽」シリーズの二回目「学修時間の確保とその意味合い」(文部科学教育通信 No.297 2012.8.13)を抜粋してご紹介します。
(関連過去記事)
大学改革-文部科学省と大学は、内向きではなく外向きの議論を進めてほしい(2012年7月22日)
前々回(本誌No.295)の続きである。中教審大学教育部会は今年3月の審議まとめにおいて、学士課程教育の質的転換のために「質を伴った学修時間の実質的な増加・確保」を提言した。このことは文部科学省が6月に出した「大学改革実行プラン」において「主体的に学び・考え・行動する人材を育成する大学教育」への転換を図るためには学修時間の飛躍的増加や学修環境の整備が必要であるとしていることとも共通である。このように、従来から一単位45時間の学修時間が確保されていないと批判があったこの問題が、昨今の新たな大学改革熱の高まりの中で、改めて表舞台に出てきた感がある。
システムとしての大学教育
言うまでもないことだが、大学教育というものは、学修時間だけではなく、教育内容や方法、教育を実施し支える教職員、学生の卒業後の進路、機器や教室などの施設設備、大学運営を支える財務や政策など多くの要素から成る一つのシステムである。また他のシステム、たとえば雇用や科学技術さらには経済・産業、国際関係などさまざまなものと複雑に関わりあっているものである。ということは、仮に学修時間が少ないという現状が教育者や教育政策担当者の目からは問題であるとしても、それは複雑極まりない大学教育システムの一つの構成要素として、現状でとりあえずバランスしているということである。そのバランスは、国によっても異なり、学歴社会で専門職優位の米国では学位の価値が高く、各大学は学位の信用保持に意を用いざるを得ないから学生に対する要求も大きくなり、それゆえに学位取得のための学修時間も長くならざるを得ないのであろう。
日本では、大学入試の持つ選抜機能が強く、特定の専門的職業と結び付かない文系分野では、入学後の学修インセンティブが弱いことが以前から知られている。今回の審議まとめでは、「企業は大学教育に多くを期待しておらず、入社後の社内教育と実務上の経験や実践で人材を伸ばしている」という見方は過去のものだとしているが、私は理系や医系はともかく、文系についてはなおそのような見方が基本的に正しいと考えている。少なくとも、企業が求める大学教育の内容に大学(文系)は対応できていないし、これからも相当に困難であろう。今回の改革案をまとめた審議会委員や政策担当者は、学生時代から熱心に勉強(一流大学の文系の学士課程教育は、将来の大学教員に対する職業準備教育としては向いている)してきたのかもしれず、また理系・技術系出身者なら学修時間が多いのは当たり前と思うかもしれないが、文系の学生は一流校であれそれ以外であれ、どのような学生生活を過ごせばよいか、目からの立位置を考えて賢く計算しているはずである。
現状のバランスを崩す問題点は
仮に、アルバイトや就活で学修時間が十分に確保できていないとしても、それはアルバイトせざるを得ない理由や逆にアルバイトを受け入れている地域経済の事情、あるいは企業の採用活動の現状があるからであり、また企業が「コミュニケーション能力」などを採用に当たって重視する以上、勉強の虫のような学生が歓迎されないことを皆が知っているからであろう。ユニバーサル化の進行に伴い、学修意欲に乏しい学生が増えているが、多くの大学では彼らを受け入れざるを得ない苦しい経営事情があることも、問題の背景としては重要であろう。皮肉なことではあるが、審議まとめが学修時間の増加を改革のための「始点」ととらえ、教育改革全体に影響が及ぶことを想定していることは、実は正しい考え方である。
しかし、学修時間の増加を図るということは、現状のバランスを崩す作業であり、人間でいえば人体にメスを入れる手術を行おうとすることである。これが病気の治療に結び付けばよいが、手術によって生体のバランスが崩れ、効果がないばかりか却って重症になったり、死に至ったりする可能性がないとも限らない。現に、これに関して集められたパブリックコメントを見ても、「学修時間を増加させれば問題が解決するかのように短絡的に受け取られかねない」、「宿題の増加と学生の自主学習強調による教員の責任放棄につながるおそれがある」、「量を確保すれば質が高くなるハズだという論理は間違いである」、「そもそも教員の教育力が明確に定義されていないのに質的向上が図れるか」(いずれも文科省まとめ)など、かなり手厳しい意見が出ているようである。したがって、学修時間の実質的な増加が大学教育というシステム全体に、あるいは社会全体にどのような影響を及ぼすものかは、システムを構成している諸要素の変化も睨みつつ、総体として利益になるようにさらに慎重に検討しなければならない。
単位制度の是非を含めて
さて、学修時間の問題は、その増加に伴う諸影響を考えることも必要だが、そもそも学修時間というものは何かということから検討しなければならないのではなかろうか。これに関しては、現行の単位制度の考え方が深く関わっている。もともと単位制は、一週間の労働時間に見合う時間に対応して、学生はこの時間を学修に充てるべきとの考えから始まるらしいが、大学設置基準に定めるところによれば、「一単位の授業科目を45時間の学修を必要とする内容をもって構成することを標準とする」(同31条第2項)とあるのみで、その学修内容は大学の判断に委ねられている。学修分野や学生の特質による差異に配慮した現実的な規定ぶりであるが、要すれば単位の数値だけでは学修内容は一義的には決まらないのである。学修時間の確保を議論の出発点にするならば、下手をすると中身の薄い形式的な学修を今以上に学生に強いることになりかねない。関係者に広く流布している15週間にわたる授業開講義務も、学修の効果を考えてのことであればよいが、4月か
ら始まる授業が真夏の猛暑の中でも終わらないという奇妙な結果を招くことになっては本末転倒である。大事なことは、教育内容の質的充実とそのための改善を促すことであって、学修時間の確保はその結果であるべきだ。その意味合いで考えると、単位制は形式ではなく、中身を伴った実質的なものにすべきであろうし、さらに進めて、単位制を維持することの是非を含めて、この際、抜本的な制度改革を図るべきである。
いずれにしても、今回文部科学省が意図している学士課程教育の質的転換は、それが意図通りに行われるならば、わが国の大学教育や大学制度に大幅な変革をもたらすことであろう。いわば壮大な設計変更である。気になるのは、この設計変更の考え方の背後に多くの外国生まれのアイデアが散りばめられていることである。ナンバリングやアクティブラーニング、ルーブリックなどのカタカナ用語だけではなく、学生の主体的学びを促す教育そのものも、日本的文脈からすればかなり斬新な試みである。外国生まれのアイデアは、日本の土壌に合えばよいが、戦後の一般教育や課程制大学院の導入が必ずしも成功しなかった例にあるとおり、よほどの工夫がないと成功は覚束ない。その意味で、今回の改革プランを打ち出した関係者には、よほどの覚悟と責任が求められる。