「なぜ日本の大学生は欧米の大学生に比べて勉強しないのか」(鈴木典比古:公益財団法人大学基準協会専務理事、前国際基督教大学学長)
日本人の大学生が欧米の大学生に比べて勉強していないという状況は東京大学・大学経営政策研究センター「全国大学生調査」(2007年、サンプル数44,905人)による大学1年生の週平均勉強時間数の比較でも示されているが、米国で10年、日本で26年程教鞭をとった私の個人的な経験からしても事実であると思う(ただし、私が学長を務めたICUの学生の名誉のために付け加えるならば、彼らの多くは米国の学生並みに勉強をしていると言える)。これには日米の大学生の生活・学習環境の違いに帰される面もある。日本の大学生が大学で勉強しない理由として、以下のような事情があるのではなかろうか。(ただし、以下のコメントでは、平均的な日米の学生を想定している)
- 日本の大学生は高校での受験勉強(暗記型)で疲弊した後に大学に入ってくる。しかも、2~3月に大学に合格すると、その疲弊を回復する間もなく、4月には入学して大学生活が始まる。大学生活の最初から、自ら学習する習慣が身についていない。また、高校の時期に時間的な余裕や考える機会が余りないことから、大学に来る目的を明確に自覚していない学生が多い。大学生活を含めた自分の生き方を若い時期のどこかの時点で真剣に考えなければならない。しかし、その事を経験しないまま受験→大学生活→就職→職業生活→退職という人生のレールを歩いている。これは多くの日本人の一様な人生模様であると言ってよいであろう。
- 米国のリベラルアーツ系大学では入学の時点では学生の専攻は前もって決まっていない。1~2年次に一般教育を履修しながら自分の専攻分野(Major)を決めてゆくのである。この段階は自分の適性、進路、職業、人生と専攻分野をいかに関連付けるか模索する時期で、大学生活にとって重要な体験の時期である。ところが、日本では大学の入学試験が専攻分野別の入試なので、高校の受験勉強(暗記型)のみで大学への進路決定が短絡的になされてしまうことが多い。高校での進路指導も偏差値による進路決定や志望校分別が強いて言うならば機械的に行われている。全人教育(後述)を行うとされる学士課程教育に入学してくる新入生が高校の段階で既にこのような機械的進路指導と分別を受けてくることの矛盾を考えなければならない。真の意味での高大連携が出来ていない。しかし、日本の各大学が独自の偏った入試問題によって入試選抜を行っている点にも大いに原因がある。この事が高校教育のあるべき姿を歪めていることは否定できない。
- 米国の多くの大学は都会を離れた閑静な田舎に立地し、大学町を形成している場合が多い。特にキャンパスを州政府から供与されているthe land grant universityやリベラルアーツ系の小規模大学はそうである。この様なキャンパス環境では学生が勉学や日常生活に支障を来さないように、図書館、寮、体育施設、文化施設、医療施設、等が充実していて、学生が忙しく勉強に明け暮れる学期中や平日は生活がキャンパス内で完結している。アルバイトなども、大学に関係のある食堂の皿洗いや図書館の本の貸し出し・返却業務、キャンパス清掃等に限られている。大学院生はTAの仕事が可能である。キャンパスの立地と環境が、学生が勉強に専念できる基本設計思想になっている。
- このようにキャンパスで完結できる学生生活を送っている米国の大学生は、平日は勉強に集中し、週末は徹底的にリラックスするというメリハリの利いた学生生活をするのが普通である。平日は大学の外の街に出ることも少ない。また、夏休みは3か月あるが、多くの学生にとってこの期間は休みではなく、働いて(summer job)次の学期の学資をためる期間である。学期の期間中や週のうちの平日には勉強に集中するために図書館の充実が不可欠であり、開館時間は午前8時から夜12時まで、また24時間利用できる「24 Hour Room」が置かれている。学生は金曜日の夕方から土曜日の夜までは勉強しない。パーティや運動が盛んに行われる。この、週末のリラックスのためには寮、運動施設、文化施設などの完備が不可欠である。これに対して典型的な日本の大学生の学生生活は、大都会でアパートに暮し、通学に時間がかかり、図書館の利用頻度も低く、運動に汗を流せる施設も少ない。アルバイト優先の生活態度も少なくない。これを要するに、大学教育にかける資源の量が日米の大学では全く違うといってよい。
- この差の原因の一つに、授業料の差があることは間違いない。米国の大学の授業料は日本の大学の授業料に比べて非常に高い。私立大学では年間授業料は平均で35,000ドルくらいであろう。これに学生生活費が12,000ドルくらい必要である。州立大学の場合、リーマンショック以来、州立大学に充てられる州政府予算は大幅に削減されている(私立大学でも運用基金が大幅に損害を被った大学は多い)。このような状況下で、州立大学の授業料も、近年大幅に引き上げられている。州立大学でも州内出身の学生(父母が州税納入者)の授業料(In-state Tuition-年間平均9,000~10,000ドル)と州外出身学生の授業料(Out of state Tuition-年間平均20,000ドル)は異なる。このように高い授業料と州政府の予算によって米国の大学の教育の質は保たれているのである。また、米国における寄付文化の伝統も大学経営に資するところ大である。米国の平均的な家庭の収入ではこれらの高い学費を負担することはできない。当然、学費は学生自身が連邦政府貸与ローンなどを利用して賄うことになる。貸与されたローンは学生が卒業後に数十年をかけて返却するのである。
- 米国の大学生が連邦政府貸与ローンを利用できるためには、通学する大学が大学認証機関(the accreditation agencies)によって認証された正規の大学であることが条件となっている。米国の大学がなぜ認証機関による認証を受けることを重視しているかの理由は、認証を受けなければ(accredited)学生が来ないということがあるからである。高校生も大学進学志望校を選択するに際しては、志望校が大学認証機関によって認証されているか否かを必ず確認している。
- 米国では大学入試に際しては多方面からの評価によって選抜を行う。高校3年間の成績、SATの点数、クラブ活動、社会奉仕、高校担任の推薦状、などなど。従って、高校の通常の勉強が志望大学への合格にとって最重要である。高校の授業は対話型が多く、暗記型は少ない。予習のための宿題が多い。従って、大学入学時に、すでに対話型の授業に慣れている。日本の教育では小中高大学を通じて学生(生徒)が対話型の授業を受ける機会が極めて少ない。
- 日本の大学教育は一度の大学入試を経て合格すると進学した大学で4年間を過ごし卒業する。すなわち学生の大学間移動がない。各大学が入試選抜によって受け入れた学生を囲い込んでいる。米国の大学では多様な大学間で学生の移動が可能であり、移動の際に目安となるのは大学間の授業科目間調整(articulation)と学生のGPAである。学生達は、例えば、とりあえずコミュニティカレッジに入学し、そこで勉強に励んで高いGPAを取得し、その高いGPAを持って、コミュニティカレッジよりもランクの高い州立大学に編入してゆく。いわば大学間横断が可能である。しかし、日本の大学にはこのような「大学間渡り鳥制度」がないために、学生は大学に囲い込まれたままで、勉学途中で移動するようなことはできない。日本のこのような硬直的大学制度はグローバルな規模で起こっている大学生の流動化(「学生渡り鳥制度」)に対応できない。
- 日本の大学ではシラバスの作成と公表が義務化されているが、多くの場合、授業予定(工程)表としてのシラバスが学生にとって使えるような内容になっていない。すなわち、学生はシラバスによって授業の内容・進捗を確認し、毎回の授業に合わせて予習・復習をするのであるが、日本の大学のシラバスは、学生が予習・復習できるような工程表の要件を欠いている。(例:シラバスの中で「参考文献は授業中に指示します」などという参考文献の取り扱いを頻繁に見かけるが、これでは学生が予習をして授業に臨むことはできない。学生は受け身の受講にならざるを得ず、双方向の授業にはならない。)不完全なシラバスは学生の勉学を動機づけない。
- 日本の大学で行われている大規模授業では学生が授業に出席する頻度は高くない。また、成績評価が学期末の筆記テストのみで行われることが多い。米国でも大規模授業はあるが、その場合には大教室での授業は専任の教員(多くはベテラン教員)が担当し、大人数の学生を少数グループに分けてディスカッション・セクッション制をとっている。ディスカッション・セクッションでは受講生たちを少人数グループに分け、大教室で専任教員が行った講義の内容を使って受講生たちがデイスカッションを繰り広げる。これは大教室での授業のこれを大学院博士後期課程で博士候補試験に合格した学生(the doctoral candidate=DC)がTA(the teaching associate=学内補助講師)となって指導するのである。TAの博士課程学生は授業料免除とともに奨学金を与えられることが多い。DCの多くは博士号取得後に大学で教職に就くことが多いので、博士課程在学中にTAを経験することは大学へ就職する際に重要な準備を行うことになる。
- ここで、TAにも2種類あることに言及しておく必要がある。これは博士課程の学生が勉学の進捗状況によって2段階に分けられることと連動している(しかし、ここでいう博士課程とは日本で言われている博士課程前期(修士課程相当)と博士課程後期(博士課程相当)の区分とは異なることに注意。後述するように、米国の大学院博士課程-日本の博士課程後期にあたる時期-は2段階に分かれている。すなわち、1)博士候補資格試験(the doctoral qualifying examination)合格前の博士課程の学生は博士課程学生(the doctoral student=DS)と呼ばれ、2)博士候補試験合格後の学生は博士候補学生(the doctoral candidate=DC)と呼ばれる。博士課程に入学して日が浅く、コースワーク(受講課程)受講中で博士候補資格試験(the doctoral qualifying examination)に合格していないDS学生は教員の授業準備を手伝う仕事などを行うが、ディスカッション・セクションを担当する学内補助講師にはなれない。他方、博士課程候補試験に合格したDC(さらに、博士論文プロポーザルに合格し、博士論文執筆中のDCであれば尚更)はディスカッション・セクションを担当し、学生の成績をつける権限と責任を付与される。日本の大学の大学院では、このように博士候補資格試験(the doctoral qualifying examination)制度が厳格に確立されていないために、TA制度やTAの身分、仕事に関する議論もあいまいであり、TAといえば教員の授業準備を行う助手であるといったくらいの理解しかなされていないのは問題である。TA制度の未確立は将来の大学教員になるであろう大学院学生に対して、とくにDC段階の学生に対して、彼らが大学教員として効果的な授業を行うために必要な授業訓練の機会を与えられないことを意味している。このことが日本の大学教育の質の向上を妨げている。
- 学生の学習成果(Learning Outcomes)の確認は、多方面からなされるべきである。たとえば、米国の大学では、成績の付け方は、中間試験(たとえば、全成績の10%)、最終試験(40%)、授業出席と議論への参加(20%)、グループプロジェクトとその報告(30%)、などを基礎にする。ビジネススクールの授業ではグループプロジェクト評価の場合、学生同士がグループプロジェクトへの各メンバーの貢献度を相互評価しあう。この相互評価の結果が学生の学期末成績に影響を持つことも多い。最終成績はアルファベットのA、B、C、D、Fなどを付されるが、Aは最終成績に換算される全得点の100~90%、Bは89~80%、Cは 79~70%、Dは69~60%、 60%以下はF(Fail)となる。成績は相対評価で、その分布は多くの場合正規分布的になる。したがって、Aは上位10%、Bは次の35%、Cは35%、Dは15%、Fは5%、と言った分布になる。米国の大学生の中には点取り虫的な学生も多いが、学生が勉強をしなければならない理由はこのように明確な成績付与方針(the grading policy)にもある。GPA換算ではA=4点、B=3点、C=2点、D=1点、F=0点、となり、Cummulative GPA(全学年を通じてのGPA)が1.00を下回る学期が3~4学期あると退学になる。このようにしてグレードインフレーションを防ぎ、学生の成績管理をしている。
- 米国では大学生の学資を親が仕送りするという習慣はあまりない。米国の大学生の多くは奨学金や連邦政府貸与ローンで学費を賄っており、将来返還の義務がある。従って、大学に来ても勉強しないということは「借金をしながら返済のことを考えずに遊んでいる」ということであり、彼らにとって考えられない事態である。
- しかし、近年の日本経済の停滞を反映して親からの仕送りが減っていることも事実であり、親元を離れて大学生活を送る日本の学生は生活費の不足分をアルバイトに頼らざるを得ない。しかし、ここでも、明確な大学生活の目的や勉強の動機を持たない場合には、アルバイトが学生生活の中心になり、勉強に費やす時間がなくなることもまれではない。
- 米国の大学生の就職では、専攻分野によって初任給が違う事が多い。また、大学時代の成績(GPA)や指導教授の推薦状が就職に際して重要視されている(指導教授は必ずしも推薦状に良いことだけを書くわけではない。公正で率直な学生評価が重要視されている。教員が了承すれば、学生は就職希望先に対し教員がどのような推薦状を書いたか、その開示を求めることが出来る)。従って、よく勉強し、よい成績を収めて、よい収入の職に就くということが直截につながっている。
- 日本の学生が勉強しないという事実を学生のみの責任に帰すことは彼らにとってフェアではない。学生が勉強をする現場は教室での授業が基本であり、授業に対して責任を持つべきなのは教員である。したがって、学生が意欲を持って勉強するような授業の環境を整えることは、まず第一に、教員の責任である。授業は(特に対話的授業は)教員と学生のコラボレーションによって構築されるものであって、学生の積極的参加を促すような授業を創りだすことは教員のクラスマネジメント能力による。ところが、日本の大学の教員の多くは授業の進め方やクラスマネジメントに関する訓練を受けていない。米国の大学の新任教員は、teaching clinic等で授業の進め方やクラスマネジメントに関する訓練を受ける。大学は教員にこのような訓練を受ける機会を提供しなければならない。大学行政側が行う教員評価は教員がこの様な訓練を受けていることを前提として行われなければ公正さを欠くものとなる。日本の大学で現今行われているFDの多くは、教員のセミナーや講習会等に限られており、FDの本来の在り方とは異なるものである。
- 授業とは知識の伝達であると同時に、教員と学生間の、あるいは学生同士の対話や感性的交流や人格的な陶冶の場になることを期待されている。教育は学生の個性豊かな全人力を陶冶する全人教育(『学士課程教育の構築に向けて』の趣旨)であるべきである。しかし、このことは教員も同時に全人格的な能力を持っていなければならないことを意味する。これは幼小中高大学の全ての段階で教育に携わる者が常に求められる必須要件である。大学教員はこの要件を満たすべく努力することを求められている。
- 以上、なぜ日本の学生が米国の学生に比べて勉強しないか、について思いつくままの諸要因と考えられるものを挙げてみたが、日本の教育制度や学生の生活ぶりについてその問題点を論じたために、基本的トーンが批判的なものになってしまったかもしれない。しかし私の考えの基本は、日本の教育制度を良くして次世代を担う学生に充実した学生生活を送ってほしいという願いに過ぎない。そのような教育制度を作ることは社会や大学や教員の責任であるし、誇りでもある。また、学生が充実した勉学に明け暮れ、学生生活を送ることは彼らの権利であり喜びでもある。