法人化によって、国立大学の教員の意識改革がどこまで進んだか。
ある報告書*1で、教員の意識に関する学長へのアンケート調査の結果が披露されていました。
結論的には必ずしも学長の評価は高いとは言えない内容で、また、学長や理事といった執行部と一般の教員の間に、法人化に伴う改革の必要性や現実についての認識にギャップがあることについて指摘されていました。
法人化は、国立大学における教員集団の意識改革(集団無責任体制から代表民主制による機能的な自立運営体制)への大きな契機のはずだったが、大学により、それが進んでいるところと、そうでないところの差が大きくなりつつある。
法人化後数年経過した現在でも、多くの国立大学にこのような状況があり、制度設計上の法人化の理念や目的は思うように達成されていないようです。
教員の意識改革の遅れに起因する諸問題
また、別の報告書*2では、教員の意識改革の遅れに起因する諸問題について、主として次のような指摘がなされています。
民間企業等から国立大学の経営に参画している外部人材から見た教員の意識改革の遅れは、決して放置しておくことができない状況に至っているようです。
- 学長の権限が拡大したはずであったが、十分に機能していない。大学の古い体質、また全学一丸となって改革に取り組むという教員の意識が低いことが主たる要因ではないか。
- 全学で危機意識を共有しているようには思えない。私学の理事を務めているが落差を感じる。
- 旧来の大学自治組織の残影が払拭されていない点は改善の余地がある。
- 「象牙の塔」にとどまらず、もっともっと社会の意見を吸収する柔軟さが必要。
- 教員は既得権を守るのに必死である。
- 「変わりたくない」という意識が強い。
- 組織防衛的な考えが先にたつ。
- 教員に改革マインドが薄く、現状維持派になりやすい。世の中のグローバル化が進む中で、当然ながら講義は英語でやらなければならない時代が来ている。しかし、これは教員の抵抗が強く改善できないでいる。
- 将来に対しての教員の危機意識が薄い。
- 道州制の議論がかなり現実味を帯びてきている昨今、生き残りをかける存在感がある大学を実現できるか、あるいは吸収合併されるのか、全教員が真剣に時代と向き合わなければならない。
- 大学運営には、リーダーシップの下、教員の協力が重要であるということと、ボトムアップを基本にした運営との違いをはっきりと教員に理解してもらうことが求められている。
- 国の機関であった時の慣習を切り捨てられないため、法人化したメリット面を十分活用できない。
- 教員の意識改革が不十分であり、大学全体の改革が進まない。
- 法人化に関する理解が不十分であり、特に教員の意識は旧態依然たるものがある。
- 学問の自治を拡大解釈している。そのため、大学運営の効率化・スピードが遅くなっている。
- 教員に多く見られる自己中心性の強さ、大学あっての自分という感覚は薄い。
- 問題は、学部や学科における古い体質だと思う。若手及び役員会の教授は現状を明確に認識しているが、現場の教授達の中には、自分の研究にしか興味のない方もいる。国立大学だけではないが、大学教育が「学会」での研究成果以外では評価されにくいところが、大学運営の難しいところだと感じている。一部には、教授自身が、自分の所属する大学に愛着を感じていないのではないか・・・と思うことが他大学を見ていてあり、大学を挙げて・・・ということが難しい。
- 大学改革で一番の障害となるのは教員の意識(保守的・独善的・非協力的態度等)。この問題解決のためにはショック療法的なものが必要。
- 国立大学における教員の意識改革の立ち遅れ、既得権への固執、改めきれないでいる数々の旧弊など、諸悪の根源は本質的に旧態依然とした学長選挙のシステムにあると考える。学長は選挙の功労として驚くほど能力が欠如している役員を指名せざるを得ず、抜本的な改革に取り組む姿勢の学長は、多くの大学で再選されていない。かくして一部教員の危機感を尻目に大多数の教員はなんとかなるだろうと惰性と既得権に安住しているかのごとくである。
- 法人化されて「改革」が必要とされていながら、改革の意識に欠ける教員がブレーキをかける印象がある。まだまだ学部意識が強い。
- 大学全員入学時代の到来に対して、大学の存立の危機に対する意識と行動が弱い。
- 横並び、わが教室・学部、唯我独尊・・・から「法人化」へ移行したのは何のためか。新しい時代への対応はどうするのか等の認識が甘い。