基礎研究というのは、川で言えば上流部分に当たる。東北地方においしいカキが取れる湾があったが、ある時から取れなくなった。調べてみると、上流で開発が行われて森林が荒れ、十分な栄養が流れて来なくなったことが原因だった。科学も同じで、上流の基礎研究を枯らしてしまうと、いい成果が下流部分で出てこなくなる。
日本では基礎研究よりも、すぐに成果が出る実学的なものを重視する傾向が強まっている。もちろん、基礎研究を無視しているとまでは言えない。僕と一緒にノーベル賞を受賞した小林誠君(名古屋大特別教授)がいる「高エネルギー加速器研究機構」(茨城県つくば市)には、毎年かなりの予算が投じられている。ただ、湯川秀樹先生や、僕の師匠の坂田昌一先生(元名古屋大教授)といった素粒子物理の分野を世界的にリードしてきた先人の努力、長年の蓄積があってこそという面も否定できない。実績のない分野の基礎研究が置かれている環境は厳しい。
背景には、研究資金の配分方法の変化がある。研究者が自由に使える研究費は減り、公募で選ばれたプロジェクトに配分する競争的資金の比重が高まった。予算を申請する段階で成果の見通しを説明するよう求められ、定期的に進捗(しんちょく)状況を報告しなくちゃいけない。この仕組みでは、確実に成果が期待でき、社会へのアピールにもつながる研究が予算を獲得しやすい。しばらく論文を書かず、新しいものに挑戦していくような基礎研究は細っていく。
初等教育や中等教育にも問題がある。日本社会は教育熱心と言われるが、正確には、教育結果に対して熱心なのだと思う。目の前の試験や入試を重視するあまり、高得点を取るテクニックばかりが発達し、研究者の素養として重要な深く考える力が育ちにくい。
例えば、こんな話がある。水が半分入ったコップを傾けた時、水面がどうなるかという問題を小中学生と高校生に解かせた場合、正解率は高校生が最も低かったという。少し考えれば答えは分かるはずなのに、受験テクニックとして、「見たことのない問題は飛ばして次に移れ」と教わっているから、多くの高校生がその言いつけを守って手をつけなかった。逆説的なことに、日本では長く教育を受けた者ほど考えなくなるのだ。
研究というのは、自分で問いを立て、その前に座り込んで考えるものだ。未知のものに挑む基礎研究では、特にこの傾向が強い。基礎研究を重視するのであれば、教育の仕組みを変える必要がある。
文系の学問を「役に立たない」と断じる風潮も、基礎研究の軽視と同じ文脈にある。だが、おかしな話だ。僕は名古屋大の学部生時代、哲学の本も随分読んだ。理解できない部分があるが、役に立たなかったわけではない。基礎研究の場合、問い立てや目のつけどころには、研究者の世界観が表れる。哲学だってその土台になったはずだ。科学は最終的に、人々の生活を豊かにしなければならないとは思う。だが、そのことばかりを狙って達成できるほど単純なものではない。
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交付金12年で12%減
基礎研究の苦境の背景にある予算削減の中心は、国立大が人件費や研究費の資金とする文部科学省の「運営費交付金」だ。2004年度の大学法人化後の12年間で1470億円(12%)減り、16年度は1兆945億円。このため国立大は教員の新規採用を抑え、40歳未満の若手研究者が年々少なくなっている。教員1人の研究費も減少。このあおりで、運営費交付金とは別枠で研究者が取り合う「科学研究費補助金」の獲得競争が激しくなっている。