2012年5月11日金曜日

学生に勉強させるには

IDE(2012年5月号)「取材ノートから」の記事を抜粋してご紹介します。


中央分科会大学教育部会が3月末、「予測困難な時代において生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ」と題する審議まとめを公表した。ここ数年、中教審は大学教育に関して幅広く審議を重ねてきたが、正直なところ戦線を拡大し過ぎた感は否めない。広げ過ぎた大風呂敷を力業で折り畳んだ。そんな印象のまとめである。

まとめは、大学教育が直面する大きな目標を「若者や学生の『生涯学び続け、どんな環境においても”答えのない問題”に最善解を導くことができる能力』を育成すること」と規定し、その上で「学士課程教育の質的転換」を訴えた。さらに、「質の高い学士課程教育に不可欠な学生の学修時間が極めて少ないのが実態」と指摘し、大学に対し、学生にもっと勉強させるように求めた。高度成長期に適用した「企業は大学教育に多くを期待しておらず、入社後の社内教育と実務上の経験や実践で人材を伸ばしている」、「昔から大学生は勉強しておらず、それでも卒業後社会で十分に活躍してきた」という認識の転換も迫った。

前段の部分はなるほどと思って読んだ。特に大学教育の目標を、このように明快でわかりやすく、しかも今日的な課題に則した形で示したのは大いに共感する。問題は後段だ。確かに、大学生が勉強していない事は明らかだ。もっと勉強させるというのは、正論だろう。にもかかわらずなぜか違和感が残る。

勉強すればいいのかは分かる。でも、いったい何を勉強すれば良いのか。経済学部の学生ならば、分厚い経済学のテキストを何冊も理解すればそれで良いのか・・・?

まとめは、シラバスやアクティブラーニング、サービスラーニング、アセスメントテスト、ルーブリックなど授業法や学修成果測定に関しては詳しく記述している。だが、いずれもテクニカルな話という印象は否めない。一方で、大学が何を学ばせ、学生が何を学べば、「予測困難な時代を生き抜く力」や「生涯学び続ける力」、「主体的に考える力」が身につくのか、肝腎要の部分は曖昧なままだ。文部科学省が日本学術会議に審議を依頼した「参照基準」の話は出てくるが、今ひとつクリアでない。

まとめは、理学、保健、芸術分野の学生に比べ、社会科学分野等の学生の学修時間が少ないと指摘した。確かにその通りなのだが、考えてみれば当然な面もある。前者の学問領域は卒業後の進路と密接なのに対し、後者はその関係性が希薄だからだ。このデータは、大学の専門分野と卒業後の進路の関係が明確ならば、学生は勉強するとも読める。

日本の大学生の大半は「文系学生」だ。文系教育の立て直しが喫緊の課題だという声は随所で聞く。しかし、社会科学を例に取れば、法曹や会計士などの資格系か研究職にでも進まない限り、大半の学生は、大学の専門教育と卒業後の進路が直結しない。ここに、文系教育が難しい一因がある。

大学は専門学問の奥義を師匠が弟子に伝える形で始まった。奥義を学びたい者だけが大学の門を叩いた。それが今や、近代的な大学制度は飛躍的な発展を遂げ、学ぶ目的も意欲も曖昧な若者が大学に入って来る。にもかかわらず、「専門領域こそ命」というDNAは脈々と大学人に受け継がれている(そうでなければ、18歳の高校生を相手に、専門領域ごとにあれほど細分化された募集単位の入学試験を行えるはずはない)。この乖離を何とかしない限り、文系教育、ひいては学士課程教育の改革は難しいのではないか。

まとめを受けて各大学は、授業前の予習を求め宿題や課題を出すなど、学生に勉強させる手立てを競うのだろう。それを間違いとは思わないが、「勉強させる中味」について、より慎重な検討が欲しい。

「大学は何を教えるのか?」--かつては自明の事と思われていたこの問いこそが、今、最も問われている。(日本経済新聞社編集委員 横山晋一郎)