沖縄施政権返還40周年 いまだ「復帰」なし得ず(2012年5月15日 東京新聞)
1972年5月15日、戦後、米軍による統治が続いていた沖縄の施政権は日本に返還された。以来40年。沖縄は本当に日本に復帰したと言えるのか。
復帰当日の午前10時半、東京・九段の日本武道館と那覇市民会館とをテレビ中継で結び、政府主催の沖縄復帰記念式典が始まった。
沖縄返還を主導した式典委員長の佐藤栄作首相は声を詰まらせながら、こうあいさつする。
「沖縄は本日、祖国に復帰した。戦争で失われた領土を外交交渉により回復したことは史上極めてまれであり、これを可能にした日米友好の絆の強さを痛感する」
「本土並み」程遠く
自らの外交成果を誇る佐藤首相に対し、那覇会場に出席していた屋良朝苗沖縄県知事のあいさつからは、復帰をめぐる県民のやり切れない思いが伝わる。
「復帰の内容は必ずしも私どもの切なる願望がいれられたとは言えない。米軍基地をはじめ、いろいろな問題を持ち込んで復帰した。これからも厳しさは続き、新しい困難に直面するかもしれない」
沖縄返還の基本方針は「核抜き本土並み」だ。核抜きとは、沖縄に配備されていた核兵器の撤去、本土並みとは、日米安全保障条約と関連取り決めが沖縄にも変更なく適用されることを意味する。同時に、沖縄県土面積の12・6%を占める米軍基地を本土並みに縮小することでもあった。
佐藤首相は「沖縄の基地は、当然日本の本土並みになるべきものだから順次撤去、縮小の方向にいくと思う」と国会答弁しており、県民の期待も高まっていた。
しかし、沖縄の米軍基地の現状はどうか。県土面積に占める割合は10・2%と依然高く、在日米軍基地の約74%は沖縄に集中する。四十年を経ても「本土並み」は達成されていない。屋良知事の懸念は残念ながら的中したのである。
人権ないがしろに
沖縄の米軍基地はなぜ減らないのか。米軍が「アジア・太平洋の要石」と位置付ける沖縄の地理的な優位性、中国の海洋進出や北朝鮮の軍事挑発に代表される戦略環境の変化など、理由付けしようと思えば、いくらでもできる。
しかし、最も根源的な要因は、沖縄県民の苦悩に寄り添って現状を変えようとする姿勢が日本政府にも、本土に住む日本国民にも欠けていたことではなかろうか。
そのことは復帰40周年を機に沖縄の県紙と全国紙が合同で行った世論調査で明らかになった。
琉球新報と毎日新聞との調査では、沖縄に在日米軍基地の七割以上が集中する現状を「不平等」だと思う沖縄県民は69%に達するのに対し、国民全体では33%にとどまる。また、沖縄の米軍基地を自分の住む地域に移設することの賛否は反対67%、賛成24%だった。
ここから透けて見えるのは、自分の住む地域に米軍基地があると困るが沖縄にあるのは別に構わないという身勝手な意識、沖縄の厳しい現状に目を向けようとしない集団的無関心だ。
沖縄の側からは、なぜ自分たちだけが過重な基地負担を引き受けなければならないのか、それは本土による沖縄に対する構造的差別だと、痛烈に告発されている。
日米安全保障体制が日本の安全に不可欠であり、沖縄が日本の不可分な一部であるというのなら、基地提供という安保条約上の義務は沖縄県民により多く押し付けるのではなく、日本国民ができ得る限り等しく負うべきだろう。
平穏な生活を脅かす日々の騒音や頻発する米兵の事件・事故、日本で起きた米兵の犯罪を日本の司法が裁けない日米地位協定…。圧倒的に多くの米軍基地が残る沖縄では依然、日本国憲法で保障された基本的人権がないがしろにされる状況に支配されている。
人権無視の米軍統治に苦しんだ沖縄県民にとって日本復帰は憲法への復帰だったが、憲法よりも安保条約や地位協定が優先される復帰前のような現状では、沖縄が真の復帰を果たしたとは言えない。
本土に住む私たちは、日本の一部に憲法の「空白」地帯が残ることを座視していいのだろうか。
人権意識の高さを売りとする米政府が、沖縄の人権には無関心なことも、不思議でならない。
同胞として連帯を
福島第一原発事故は、福島の人たちに犠牲を強いてきたと日本国民を覚醒させた。政府や企業が発する情報をうのみにせず、自らの頭で考え、判断する行動様式が根付きつつある結果、政府や電力資本のうそが次々と暴かれた。
沖縄の現状にも国民全体が関心を寄せ、沖縄に基地を置く根拠とされた「抑止力」が真実かどうか自ら考えるべきだろう。本土と沖縄が同胞として痛みを共有し、連帯して初めて、本当の復帰に向けた第一歩を記すことができる。
私の沖縄 復帰40年 夢描いた「誇りの島」 宜野湾市出身 本紙・大庭記者(26)(2012年5月15日 西日本新聞)
沖縄はきょう、本土復帰40年を迎えた。沖縄出身の私は、記者3年目の26歳。1972年の復帰前の沖縄は、教科書の中の出来事としてしか知らない。進学と就職で九州に住んで、生まれ育った島を意識するようになった。古里の文化や芸能、自然を誇りに思う一方、本土との隔たりをふと感じることもある。節目の古里を書き残したい-。その思いで、懐かしい人たちを訪ね、自分の記憶をたどった。
宜野湾市(ぎのわんし)に生まれ、18歳までを過ごした。普天間飛行場が居座る、あの街だ。小学生時代、教室は騒音防止のため二重窓だった。それでも、頭上を飛ぶ米軍ヘリコプターの音による授業中断は珍しくなかった。
取材は、中学、高校時代の友人たちを通じ、県民の「本音」を聞くことから始めた。お酒に誘うと、気が置けない5人が集まってくれた。
「基地はそこにあるのが当たり前さ」「生まれた時からあるのに、違和感はないよ」。彼女たちは口をそろえる。中には、家族が基地内で働く人もいる。公務員になった一人は「学生の時は基地反対だったさ。でも、経済や国の安全を考えると、今は答えが出ないよ」と打ち明けた。
日常風景の中にある当たり前の基地。しかし、それが当たり前でなくなることも経験した。
95年に起きた米兵による少女暴行事件。私は当時小学3年。少女と同世代だった。それまでは街で見かける米兵は陽気なイメージ。事件後、学校では「怖いから近づいてはだめ」と教えられた。連日の大報道。「基地が事件を生んだ」という印象が子ども心に残った。
高校1年だった2001年の米同時多発テロは、さらに記憶が鮮明だ。発生直後から、基地の外でも警棒を持った米兵が警戒するようになった。基地の入場口周辺は厳戒態勢で、連日渋滞。「沖縄もテロに狙われるのかな」。友人の顔が、いつになく真剣だった。私も生まれて初めて、戦争が近くにいる不安を感じた。
私の家族のうち、女3代で1945年の沖縄戦を体験しているのは祖母のキク(81)だけだ。当時13歳。戦後はうるま市の捕虜収容所でテント生活を送り、米軍から配給された缶詰やお菓子で空腹をしのいだという。
戦後、米国による沖縄統治が27年間続く。祖母は復帰後の変化を「天と地がひっくり返ったみたいに社会が変わったさ」と目を丸くする。
復帰翌日、銀行でドルを円と交換した。78年7月30日には、車が右側通行から左側通行に変わった。「アメリカ世(ゆ)からヤマト世(ゆ)になったね」。県民は世変わりを実感したのだという。
一方で、知人の中には「本土になんか復帰したくない」と悩む人もいたらしい。「本土の男性と結婚して実家から縁を切られた女性もいたさ」とつらそうに振り返る。
母の紀久子(60)は、復帰前の71年に東京の大学へ進学した。当時は、沖縄出身アイドルの南沙織さんが大人気。「私も『沖縄の子』と言われて、ちやほやされたのよ」とうれしそうだ。母は今も、本土へ渡航する時に所持していたパスポートを大切に保管している。
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75年の沖縄海洋博、87年の海邦国体-。母たちは記憶に残る出来事をそう語るが、私にとって印象的なのは2000年の九州・沖縄サミットだ。
当時、嘉数(かかず)中学の生徒会長を務めており、宜野湾市主催の関連事業「子供サミット」に学校代表として参加した。自分で書いた発表文が手元に残っている。
「跡地には、県や国のためになる施設を造ったらどうでしょうか。世界中の子どもたちが集まる国際平和学校を建てたらいいなと思います」。普天間飛行場の返還後の街づくりについて夢を、そう私は描いた。
あれから12年。「ここが本当に基地だったの?」。米軍基地が多い沖縄だが、私よりも若い世代が驚く場所もある。北谷町(ちゃたんちょう)のアメリカンビレッジと、那覇市の新都心。返還された基地跡地に大型商業施設や映画館などが建設され、若者たちの歓声でにぎわう。
◇
忘れられない思い出がある。18歳で宮崎大へ進学した時。入学早々、本来、怒るべきではないような場面で、担当教官に対し大声で怒ってしまったのだ。
「基地を押しつけてしまい、沖縄はかわいそうだ」。こう話す教官のひと言に「かわいそうって、どういうことですか」と抗議した。
教官に悪気があろうはずもない。むしろ「本土も真剣に考えなくてはね」と、沖縄のことを気遣って言ってくれたはずだ。ただ、沖縄が本土の人にとって「特別な存在」と見られているように思え、なぜか悔しかった。「沖縄に住んだことがないのに、何が分かるんですか」。そんな言葉を浴びせてしまった。本当に反省している。
以来、私は沖縄出身であることを心のどこかで意識するようになった。国土のわずか0・6%の島。人口は1%強。その古里が一層、切なく、いとおしい存在に思えるようになった。
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沖縄戦で、激戦地となった嘉数高台公園(宜野湾市)の展望台からは、普天間飛行場が一望できる。何度も駆け上がって眺めた場所。かつては「これが戻ってくるのか~」と期待を抱いたこともある。10年ぶりに足を運んだが、景色は変わっていなかった。
公園の芝生ではキャッチボールをする子どもたちの笑い声が響く。私の沖縄-。それは「誇りの島」。自信を持って言える日を、願っている。