2018年12月13日木曜日

記事紹介|「今のまま」から踏み出す

高大接続改革は相変わらず迷走しているように見える。大学入試に民間英語試験を導入する文科省のプランに対し、あの東京大学が9月、活用に扉を開く方針をホームページで公表したにもかかわらず、だ。

東大は、民間試験でA2レベル以上の成績を残すか、同等以上の力があることを「証明」する調査書などを高校が提出することを出願要件として求めるという。調査書の提出は一見、民間試験の形骸化を目論む抜け道とも見えるが、さにあらず。高校教員がA2レベル以上の「書く・話す・読む・聞く」力を証明するのは至難の業だからだ。「A2レベル以上」とはどの程度の力かを熟知したうえで、生徒のふだんの様子がそれに合致しているかどうかに目を凝らさなけれぱ書けない。それが可能か。詳細は、読売新聞公式サイト「異見交論56」の五神真学長のインタビューをご覧いただきたい。

ともあれ本質的な狙いは、「高校の教育現場で頑張っている先生たちの背中を押し、その成果を大学教育としっかり接続する」ことだという。

たとえば、「現場で頑張っている先生」の一人、東京都立両国高校の布村奈緒子教諭は、生徒のグループワークを重んじている。「読解」の授業の場合、次のような段取り進む。まず教科書の本文を四つに分け、教室の四隅に張る。次に4人で作る各グループのうち1番目の生徒が「1番の隅」に張られた英文を読み、頭に入れる。続いて2番目の生徒は「2番の隅」・・・と順次、分担して頭に入れた内容をそれぞれがグループに持ち帰り、英語で伝える。4人の話をつなげて初めて全容が分かる仕掛けだ。

さまざまなレベルの生徒がいるため、集まった時、英語の苦手な生徒はわからない箇所を隣り合わせた生徒に英語で必死に尋ねる。尋ねられた生徒は、相手が理解しやすいように言葉を砕いて伝える。教室内の至る所で「尋ねる」「教える」が展開されるのだ。それでも全容がつかめず、生徒たちに読んで理解したい気持ちが強まったときに「ではテキストを開いてみよう」となるわけだ。すると、海綿が水を吸い込むように教材の内容が生徒に染み渡っていく。

こうした授業の模様をサイトで紹介したところ、反論が上がった。大学関係者ではなく、親たちからだった。自身が同窓会長を務める高校に子どもを通わせる男性からは「こんな授業は間違っている。読売新聞はどうかしている」と厳しいメールが寄せられた。難解な単語をたくさん使い、修辞を凝らした長文を辞書片手に読み解いた時間がどれほど力をつけてくれたかを切々と訴え、「自分たちが受けた教育を否定するつもりか。なぜいまさら変える必要があるのか」と結んでいた。従来の教育を重視する人たちは、「教育改革」を、自分の能力や、それどころか存在意義まで否定する脅威として受けとめるようだ。

そもそも今回の高大接続改革は、「グローバル化による時代の変化」への問題意識から始まった。かつては、多くの知識を蓄えれぱ難関大学に入れ、「一流企業」に就職でき、定年まで安泰という成功モデルがあった。ところが、グローバル競争の激化や海外の金融不安などから「一流企業」ですら倒産し、あるいは他社との寄り合い所帯を作って生き残りを図らなけれぱいけない時代になった。そとで働く人にとって頼みの綱となっていた終身雇用や、年功序列も、いまや風前の灯だ。企業のあり方や、そこでの働き方も、政治家ふうに表現すると「ゲームチェンジ」を迫られているのだ。

一方で、そこに至る教育は簡単には変われない。学習指導要領改定ひとつとっても、10年がかりで審議を重ねてやっと出た結論に基づいて教科書を作り、現場に定着させていくまでにさらに何年も。その問、時代はどんどん先を行く。「否定された」ことへの憤慨が目をくらませるのだろうか。時代の変化と、その先に待つ子どもたちの未来がなかなか目に映らないのかもしれない。

先日、ある大学の教員や職員から「親の内定つぶし」を聞かされた。就職活動の末に学生がやっと手にした内定を親がつぶしに来るというのだ。「テレビコマーシャルもやっていない無名の企業に勤めさせるために、4年聞も学費を払ってきたのではない」と内定を辞退させたり、大学に苦情を持ち込んだりするのだという。名も知られていない企業は「一流」ではなく、将来が不安に見えるようだ。テレビコマーシャルがその社の経営を保証するものではないことは、念頭にない。

変化を厭う根底には、余計な苦労をさせたくない親心もあるだろう。別の大学教員から最近、親にねじ込まれた体験を聞いた。その教員は何年も学生と一緒に発展途上国でのフィールドワークに取り組んでいた。現地の人々や政府、民間活動団体(NGO)との交流を通し、国際援助のあり方を考えるのがテーマだ。だが、ここ数年、尻込みする学生たちがどんどん増え、今年はとうとう親までが学生に同調してしまったらしい。学生自身に航空券やホテルの予約をさせるところから学習は始まる。「大変すぎる」との不満が学生から噴出したため、教員が事前に何度もサイトのありかや予約の仕方を教えていたが、ついには親たちが乗り込んできて「なぜ全ての段取りを教員がしないのか」とクレームをつけ、最終的に体験学習は取りやめになったそうだ。

誰でも挑戦は怖い。できれぱ、苦労もしたくない。だが、尻込みして古い価値観にしがみついているうちに時代は加速度的に変貌し、ふと気づくと居場所を失っている。そんな危険が現実になろうとしている。もし子どもが退いていたら背中を押し、一歩下がったところで見守っていてほしいと願うのは、理想論に過ぎるのだろうか。

「第1志望から不本意入学」とよく耳にする。親も子も「現役志向」が強い。高校の進路指導教員もそれを押し返し、挑戦させるほどの力量はない。あげくに、模試での合格率が80%を超えたところだけを「第1志望」にさせるため、行きたい大学ではなく、受かる大学を選ぶことになる。努力し、挑戦しようという気迫が進路選択の時点から失われている。その結果として、「今のままでどうして悪いのか」という開き直りの疑問がわき出るのは、必然かもしれない。

筆者が大学で担当する授業で先日、介護を受ける高齢者の立場から見た外国人労働者雇用の問題が議論に上った。全員が「介護を受けたことがないからわからない」と首をひねるので、「この近くに通所施設があるね」と軽く付け足しておいた。

ひょっとしたらと思い、帰り道にその施設に立ち寄ると、やはり学生数人が訪ねてきたらしい。「すぐそぱなのに、学生さんが来てくれたのは初めて」とスタッフは喜んでいた。利用者の帰宅時問にぶつかり、慌ただしくて話が出来なかったから、また来てほしいと伝言を預かった。翌週、学生たちにその旨を伝えると、その問題の議論はすでに終わっていたにもかかわらず、喜び勇んで出かけていった。

「今のまま」から踏み出すきっかけは、ほんのちょっとしたことなのかもしれない。

取材ノートから「学びをつなぐ」|IDE 2018年12月号 から