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記事紹介|政権が操る大学政策

 (1/)14日の一部朝刊で、地方国立大学の定員増が2022年度にも認められることが記事になっていた。既に7日の時点で「抜いた」社もあった。気になるのは、主語が「文部科学省」であることだ。 もちろん今後は文科省側で要件を検討し、国立大学の中期計画の変更を認可することによって定員増が認められる。最終的に文科省が決める、ということに間違いはない。 事情を知る者が一部報道をよく読めば区別できようが、一般読者にはあくまで文科省が方針転換したと受け止めるだろう。しかし、そもそもの主語が違う。 14日の報道は、前日に開かれた中教審の大学分科会を受けたものである。しかし、この議題が同分科会に掛けられた昨年9月の段階で永田恭介分科会長(筑波大学長)は「われわれがここで述べなければいけない意見は、増員に賛成か反対かということではなくて」と、極めて消極的な姿勢から議論を始めている。 それもそのはずで、そもそもの出どころが「文科省」の方針ではない。20年7月の骨太方針に「地方国立大学を含めた定員増」が盛り込まれてから、内閣官房の検討会議で議論されてきた。13日の会合でも、12月21日閣議決定の「まち・ひと・しごと創生総合戦略」や同22日の検討会議取りまとめが報告された上で「今後の流れ」が既定方針として示されている。 「まち・ひと・しごと」といえば、16~19年度に大都市圏の私立大学で入学定員が厳格化された。それによって確かに地方私大では定員充足率が上がったが、有名大学の難易度が上がるなど受験生にとっては混乱もあった。 大学の規模に関して中教審は18年11月に「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン」答申をまとめているが、これが政府方針を左右した形跡は全くない。加計学園の獣医学部問題と同様、いずれも官邸主導で進められたものだ。 もちろん、地方国立大学の定員増に反対しているわけではない。ただ、デジタルトランスフォーメーション(DX)だのSTEAM(科学、技術、工学、芸術、数学)だの余計な条件が付いていることを見逃してはならない。けちをつける必要はないかもしれないが、問題は文科省や大学関係者とは別のところから「改革」が迫られているという点である。 首相の座が替わっても、アベ=スガ政権の本質は変わらない。既に政権に陰りがみられるにもかかわらず、各官庁は委縮した行政運営を余儀なくされ...

記事紹介|大学のオンライン教育について考える

世界の大学において、コロナ禍で否応なくオンライン教育が進んでいる。我が国では、後期には対面授業を増やそうとしたが、第2波の感染拡大により、リスクを避けて、オンライン教育の割合が維持されているようである。一部の例外を除いて、大学による情報公開が不十分なので、実態はいまだ藪の中である。その中で、国立情報学研究所によるオンラインの研究会(シンポジウム)が、この1月14日までに24回も開催されて、大学間の情報交換の場になっているのは、特筆すべき貢献であろう。これまでに認識されている課題、今後の課題、やや長期の将来的な課題について、私なりに整理してみたい。 まず、これまでの実施状況に鑑みての課題である。先進的な大学において、解決策を模索する試みが行われており、その成果が、後続の心ある大学に生かされることが期待される。 第1に、大学ごとの学生の能力、環境、気質による違いを踏まえた授業の工夫である。一般的には、自学自習の能力が高い学生であれば、オンライン教育の成果は、対面授業と同レベルと考えて良さそうである。演習を含めて、遜色がないとの報告もある。ただ、学生同士で教えあう機会が減った関係で、仲間と学ぶスタイルを好む学生には、孤独な学習が負担になっている。結局、オンライン教育を実りあるものにするためには、個々の学生の学習支援を今まで以上に丁寧に行う必要がある。学生の学習ICT環境への支援も大学によって大きな違いがあるようだが、最低限の環境の確保は無視できない課題である。 第2に、オンライン教育の得失を分析して、欠点を補う取り組みをすることである。対面授業との最大に違いは、学生が集中して聴いているのか、内容を理解しているのか、反応が得にくいことである。極端な場合は、学生がパソコンの前に居ないかもしれない。重要なポイントを追加で提示する、クイズを出して回答させる、簡単な作業をさせる、チャット機能で質問を受けるなど、双方向性を生かして、学生に能動的な参加を促す試みがなされているが、Zoomなどのツールを使用していない教員は、こうしたことが全くできていないだろう。 第3に、教員及び学生への技術的支援である。先進的な大学は、教員のスキルアップに関して、当初の段階で注力している。これが中途半端だと、オンライン教育とは名ばかりの授業が増えてしまう。また、授業開始後も、適宜、技術的な問題を解決する...

謹賀新年

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記事紹介|一人も取り残さず

2020年は、コロナ禍の陰で、教育格差の解消という課題にスポットライトが当たった年だったと個人的には認識しているが、この点に関して文科省の動きが鈍いことは大いに不満である。彼らにとって目下一押しの政策らしいGIGAスクールでは、一人も取り残さないなどと威勢の良い口上が大臣からもあったが、それが具体的に何を意味するのかはよく分からない。一般的に、霞が関で成果目標を明示しない政策は、実現の責任を負わないと宣言しているようなものである。 教育格差の解消は、憲法第26条に由来する、国に対して積極的な作為を請求する権利(それに対応する国の配慮義務)に基づく課題だと思っている。深まり行く経済格差の拡大が、日本社会の基本構造を掘り崩し、国民の分断を押し進めることは、もはや明らかである。教育は、そんな危険をはらむ社会の安定装置にならなければならない。今や、教育格差の解消は、文科省の存在意義といっても過言ではないはずである。菅政権の一丁目一番地であるデジタル化の推進も結構だが、より本質的な教育格差の解消について、文科省から包括的な政策が打ち出されるべきであろう。特に、高校から高等教育段階におけるキャリア教育(雇用可能性を高める基本的な知識技能の習得)、社会に出てからのリカレント教育(産業構造の転換に即した実践的スキルの習得)について、経済支援を含む具体的な社会システムの構築が急がれる。あえて政策と言っているのは、単発の施策でやっているふりをしたところで、教育格差の解消には程遠いからである。単発の施策は、思い付きで、脈絡なく、打ち上げて終わりになることが大半である。予算に見合う成果は残らず、施策の残骸と虚しさだけが残る。そんなやったふりで、時間が無駄になり、教育格差はより深刻になり、相対的な弱者にとっては、社会での生きにくさが増していく。この分野の不作為は、国としての破滅への道だと理解すべきであろう。その意味で、文科省には、日本という国の未来が託されているのである。その割に危機感が薄い印象であり、失望を禁じ得ない。 重点となっているGIGAスクール構想に関しても、デジタル教科書の機能、その利用による学習効果などについて、ロジカルな説明がない上に、肝心のデジタル教育に関する教員のスキルアップをどうするのか、いまだに施策らしいものがない。一つの政策として、肝心な箇所に穴が開いたままで、スト...

記事紹介|コロナ禍における授業の在り方

大学が文科省に対して嘘の回答をするとは思いたくないが、12月24日の朝刊各紙に掲載されている標記の調査結果は、真実性にかなり疑問がある。大学からの回答に関して裏付けを取らずに、鵜呑みにしているからである。対面授業の割合が低いとする回答をしている大学については、一応、額面通りに受け取って構わないだろう。調査前に対面授業の割合が低い大学は名前を公表することがあるとされていたこと、それらの大学には、学長からのメッセージや学生の理解度など付加的な情報についても回答が求められたことから、大学の方針として、あえてオンライン教育を選択していることを明らかにしているからである。他方で、比較的小規模な大学で、後期には、感染対策を講じながらの対面授業を選択したという事情も理解できる。 恐らく真実性を問うべきは、規模が大きな大学で、「半々」という回答をしているところである。すべてを疑うわけではないが、オンラインか対面かは、教育に係る方針の問題なので、原則としてどちらかの方法を選択するはずである。したがって、基本的にどちらかに偏るのが自然であろう。「半々」というのは、対面への切り替え方針が、学部に浸透せず、まったく徹底できなかったという意味になるのであろうか? 私が調査を担当するならば、そのあたりの事情を詳しく聴くだろう。方針の転換に関する一連の経緯のほか、どういう授業科目で、何ゆえに対面に切り替えられなかったのか、確認する。主としてオンラインを選択している大学の付加的な記述の中にも、そうした学内事情らしいものが垣間見える。今はオンラインが主だが、次年度からは、対面を原則とするなどの方針を述べている大学も相当ある。文科省へのリップサービスかもしれないが・・・。「半々」と回答した大学に、付加的な記述を求めなかったのは、真実性の確保という意味で、調査側の手落ちとしか思えない。もっとも、真実性を重視しているならば、バイアスをかけておいて回答を求めたこと自体が、正しい手続きではなかった。大学名を公表されるのを避ける意味で、回答の担当者が平気で嘘をつく大学があるとは思わなかったのだろうか? あるいは、授業があった期間に、幾つかの大学を選んでキャンパスを訪問すれば、どの程度の学生が来ているか、容易に実感できただろう。大学の回答を信用しすぎると、真実性が低いデータを報道機関に提供してしまう。後で真相が明...

記事紹介|霞が関が学びきれていない失敗の本質

大学の現場感覚としては、大学入試センター試験は、標準的な学力の測定という意味で、問題作成の質が高く、高校学習指導要領への配慮も十分で、総合的に高評価を得ていると感じていた。確かに英語のリスニング試験は無理をしながらの実施だったが、何とか定着をみたと考えていた。何よりも、答案を短期間に正確に採点をするとともに、受験生側も自己採点で結果の予想が精度よく可能だったので、この種の試験としては、大学や高校の教育関係者からも評判がよく、国から褒められてしかるべき実績を残していた。 しかし、文科省は、トップダウンで、高校教育の改善を念頭に、高大接続部分に当たる大学入試を、外国(主にアメリカ)のシステムをモデルにして「改革」すると言い出した。うまくいっている大学入試センター試験を「改革」する必要はなかったはずだが、1点刻みの合否判定は不合理、複数の受験機会を設けるべき、記述式の設問も必要、英語は民間試験に代替することが可能などなど、種々の理由を持ち出して、センター試験を廃止して、新たな試験システムを構築する方向で、学識者らを集めて、急ピッチで検討を行ったのである。 その結果については、大きな目玉とされた記述式の採用が、採点の技術的問題で見送られ、英語の民間試験の導入も、得点換算の公平性の観点から先送りになっていると理解している。文科省にも、言い分は色々とあるだろうが、ここまでボロボロになって撤退した「改革」はあまり記憶にない。この「改革」を含めて大学入試の諸課題について幅広く論じている「大学入試がわかる本」(中村高康編、岩波書店)所収の荒井克弘「高大接続改革の現在」論文には、現場の学識者としての無念さがにじみ出ており、その優れた分析とともに、共感を禁じ得ない。 ここでは、なぜ、こうした失敗が繰り返されるのか、失敗から何を学ぶのか、考えてみたい。簡単に言えば、この分野の古典である「失敗の本質」(戸部、寺本、鎌田、杉之尾、村井、野中著、中公文庫)から、いまだに霞が関が学びきれていないということになる。霞が関の病理は、日本軍の組織的病理と同根である。以下に、私が考える今回の失敗の要因を挙げてみたい。なお、ケースとしては、文科省の事例だが、現在の霞が関に広く蔓延している傾向であると感じている。 第1に、現場、現実を踏まえない計画を立案してしまうことである。よくあるのは、背景も状況も異なる外...

記事紹介|私立大学における学生納付金の意義と役割

学生納付金の要件とは 私立大学の学費は、文部科学省の省令である学校法人会計基準の中で「学生生徒等納付金(以下、「学納金」と言う。)」という勘定科目(大科目)で扱われる。この学生納付金の小科目として、授業料、入学金、実験実習料、施設設備資金(施設設備費)などが同会計基準の記載様式として例示される。これ以外に教育充実費などの小科目を追加している法人も多く見られる。かつて筆者が、日本私立学校振興・共済事業団で学校法人の会計基準の担当をしていた時に、全国の大学法人の計算書類の科目名称を調査した。先述の小科目のほか、課外活動費、学生生徒の個別指導費、教育充実費、補講費、図書費、教材費、厚生補導費、暖冷房費、維持費、校費、管理費、在籍料など100種以上の多様な小科目が見られた。様々な教育活動に対応する実費徴収的又は付加的な教育サービスの趣旨で設定されている(昭和62年私学事業団経営相談回答集)。 学生納付金は学校教育法施行規則第4条によると、授業料、入学料その他の費用徴収に関することとして、学則に記載すべき事項に指定されている。これらを変更しようとするときには、学則の変更届出を文部科学大臣に提出することが必要となっている。昭和52年の文部省通知では、学生納付金に関する措置として、第1に、徴収の必要性を明確にすること、第2に、その額の抑制に努めること、第3に、学生納付金のすべてを募集要項等にあらかじめ明記すること、第4に、学生の負担軽減を図るため分割納入、奨学事業や減免措置を積極的に講ずることが求められている。私立大学の学生納付金は所轄庁の認可制ではなく届出制とされているが、高額な納付金の抑制と保護者負担の軽減を図るために、通知や行政指導又は補助金配分等によって所轄庁からの一定の規制がなされている。 これらの点を踏まえると、学則等に学部学科等ごとに一律に定められた金額が記載されており、その学則が所轄庁に届けられているものが学生納付金と言える。この「学則記載性」と「学部学科等ごとの一律性」が学生納付金の形式的な要件とみなすことが出来る。 教育サービスの対価が学生納付金 私立大学の学生納付金の基本的な性格は、学生が入学して卒業するまでに受ける様々な教育活動に要する経費に充当すべき費用と考えることが出来る。これを「教育サービスの対価性」とも言う。大学が学生のために提供する教育活動の本来...

記事紹介|授業をオンラインで行うこと

オンライン授業への突貫的移行を経て 今年度前期は、世界的なCOVID-19の感染拡大が続く中、日本の大学の約9割が授業をオンラインで提供することを余儀なくされた。開講予定であった授業がどの程度をオンライン化できたかは、各大学や各授業科目によって異なったものの、オンライン授業への移行に要する対応や支援については、大学・教職員各々のレベルで、様々な努力や苦労があったに違いない。 筆者の所属する京都大学高等教育研究開発推進センターも、3月下旬からオンライン授業支援サイト「 Teaching Online@京大 」や、20回近く開催した各種の学内講習会・相談会を通じ、教育・研究に関連するICT環境の運用・支援を行っている情報環境機構と共に、全学の教職員や非常勤講師に対して、オンライン授業実施のための教育的・技術的な支援に尽力してきた。このように、教育面・技術面をサポートする2つの全学的支援組織が緊密に連携・協力を図り、車の両輪のようにバランス良く各部局・教員に必要とされる支援を継続的に提供できたことに加え、今回、学内の多くの学部・研究科等において、教育支援組織や教職員による支援グループが自助的に活動・機能したことにより、トップダウン・ボトムアップの双方向からの支援の相乗効果が図れたことは幸いであった。 約8年半前に日本に帰国するまで、筆者はアメリカに約20年間在住し、財団や大学で高等教育の進展・振興にかかわる研究開発や実践、特にテクノロジーを活用した高等教育のイノベーションに携わっていた。その経験を踏まえて、日本の大学におけるテクノロジーの利用やその浸透は、欧米に比べると約10年は遅れており、おそらくもう20年間以上、その差はほとんど縮まっていないという認識を持っているが、その中で、このような半ば強制的なオンライン授業への移行という事態を日本の多くの大学が受け入れざるを得なかったことについては、正直なところ、非常に複雑な心境である。 この半年間を振り返ってみれば、「オンライン授業によって、大学生・大学院生の学びを継続させられた」、「教職員や学生は、無理矢理ながらも、教えたり学んだりするためのICT利用のリテラシーを身に付けられた」、「工夫しながらオンラインで授業を行う中で、対面で行う授業に比べ、教授・学習の観点からより効果的な側面も見出せた」など、ポジティブなことも多々あっ...

記事紹介|学歴証明のデジタル化

加盟国では学習者がどこで何を学び、どんな資格や技能を持っているかを電子履歴の形で、大学や企業にオンラインで送ることができる。発行元や発信・送信記録も確認でき、私が25年前に経験したような紙の書類の真正性の確認はとうに不要になっている。 紙文化の日本は、こうした潮流から完全に取り残されている。海外赴任中、大学の卒業・成績証明書を取り寄せるのに苦労した経験がある方もいるだろう。コロナ禍によるキャンパス閉鎖や事務局のリモートワークで、卒業証明書の発行が遅れるなどの問題も起きた。 証明書類のデジタル化は、海外留学する日本人や来日する留学生だけでなく、就職や転職で学修歴の証明書を必要とする全ての学生や卒業生にメリットがある。特にこれからは終身雇用が崩れ、1つの職場に在籍する期間が短くなり、転職機会が増えることが予想される。デジタル化の必要性は一段と高まる。 実証実験は1年間の試行を経て21年秋から本格運用に移行する予定だ。主要国で使われているものの中から日本の大学の実情に合ったシステムを選んでおり、多くの大学の参加を期待したい。 新政権の誕生で各分野のデジタル化に弾みがつきそうだが、大学も遅れを挽回する必要がある。学修歴証明書のデジタル化は、優秀な外国人材や留学生の獲得に寄与すると確信している。 ◇ 大学でも脱・紙文化の動きが始まった。東北大は6月、「オンライン事務化」を宣言。学内の申請や決裁の手続きをデジタル化するとした。押印(ハンコ)の原則廃止により、年に約8万時間分の作業が減るという。 デジタル化は大学の国際化とも密に関わる。9月入学の拡大などをしても、海外からオンラインで直接出願できる仕組みが整わないと、外国の若者にとって日本の大学は身近な存在にならない。 学生の国際流動性を高めるには、事務手続きなども含めた総合的な改革が必要だ。(抜粋引用) 出典|学歴証明のデジタル化、5大学で実証実験へ|日本経済新聞  

記事紹介|成長に最大の責任を持つ者は、本人

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P・Fドラッカー氏の心に響く言葉より… 成長に最大の責任を持つ者は、本人であって組織ではない。 自らと組織を成長させるためには何に集中すべきかを、自ら問わなければならない。 《非営利組織の経営》 これは、「組織」という言葉を「学校」や「家庭」に置き換えてもそのまま通用する。 成長に責任を持つ者は、本人であって「学校(家庭)」ではない。 組織や学校や家庭は、本人が成長したくなったり、勉強しやすい環境を作る必要はあるが、あくまでも勉強し、成長するのは本人だ。 しかし、その環境にしても、万全なものを与えればよいというものでもない。 古今より、ひどい環境の中で成功した者は多くいる。 どんなに頼まれても、ダイエットを代わりにすることはできない。 つまり、ダイエットも勉強も、その結果は他の人にではなく、必ず本人に戻ってくる。 それを、ドラッカーはこう語る。 『私が13歳のとき、宗教の先生が生徒一人ひとりに「何によって人に憶えられたいかね」と聞いた。 誰も答えられなかった。 先生は笑いながらこう言った。 「いま答えられるとは思わない。 でも、50歳になって答えられないと問題だよ。 人生を無駄に過ごしたことになるからね。」 今日でも私は「何によって人に憶えられたいか」を自らに問い続ける。 これは自らの成長を促す問いである。 なぜならば、自らを異なる人物、そうなりうる人物として見るよう仕向けてくれるからである。』《非営利組織の経営》 鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの墓碑銘にはこう書いてある。 「おのれよりも優れた者に働いてもらう方法を知る男、ここに眠る」 墓碑銘や新聞の死亡記事には、「何によって人に憶えられたいか」が書いてある。 また、葬式や通夜での本人紹介でもそれはアナウンスされる。 人生100年時代、「何によって人に憶えられたいか」は、どれほど成長したか、という人生の通信簿だ。 あの世に逝く直前までいかに、倦(う)むことなく前のめりになって自らの魂を磨いたか。 「成長に最大の責任を持つ者は、本人」という言葉を心に深く刻みたい。 出典: 成長に最大の責任を持つ者は、本人 |人の心に灯をともす