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沖縄旅行記 2009 (5)歴史を学ぼう、戦跡参り

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渡嘉敷島到着後、まずは戦跡を回りました。 1945年の沖縄戦において、慶良間諸島では痛ましい出来事がありました。米軍は、沖縄本島上陸作戦として、まず、慶良間諸島に砲爆撃を行い上陸しました。 日本軍と住民は、米軍に追われて山の中に逃げ込みました。パニック状態に陥った人々は、逃げ場を失い、北端の西山に追い込まれました。そこで、悲惨な「集団自決」が起こったのです。 家族親戚が身を寄せ合い、あらかじめ配られた手榴弾の栓を抜き爆死を試みました。しかし、前日からの豪雨で発火しませんでした。そのことが逆に、この世のものとは思えない凄惨な光景を生んでしまいました。 鎌、鍬、カミソリ、あるいは縄を使い、身内同士の殺し合いが始まり、自ら生命を絶っていったのです。(国立沖縄青少年交流の家ホームページから) 集団自決跡地 交流の家の東展望台へ向う途中にあります。 白玉之塔 戦没者の御霊が祭られています。交流の家から港方面へ向う左側にあります。 米紙記者が見た沖縄戦 渡嘉敷島の集団自決 (「沖縄 近い昔の旅-非武の島の記憶」森口 豁著から) 【琉球列島、3月29日(遅)AP】 米国の「野蛮人」の前に引き出されるよりも自殺する方を選んだ日本の民間人が、死体あるいは瀕死(ひんし)の状態になって折り重なった見るも恐ろしい光景が、今日慶良間(けらま)列島の渡嘉敷島に上陸した米兵たちを迎えた。 最初に現場に到着した哨戒(しょうかい)隊に同行したニューヨーク市在住の陸軍カメラマン、アレキサンダー・ロバーツ伍長は「いままで目にしたものの中で最も凄惨(せいさん)」と現場の様子を表現した。 「我々は島の北端に向かうきつい坂道を登り、その夜は露営した。闇の中に恐ろしい叫び声や泣き声うめき声が聞こえ、それは早朝まで続いた」と彼は語った。 散乱する死体 「明るくなってから、悲鳴の正体を調べにいくためにニ人の偵察兵が出ていった。彼らは二人とも撃たれた。その少し前、私は前方6ヵ所か8ヵ所で手榴弾が炸裂(さくれつ)し炎が上がっているのを見た。ひらけた場所にでると、そこは死体あるいは瀕死となった日本人で埋め尽くされていた。足の踏み場もないほどに密集して人々が倒れていた」 「ボロボロになった服を引き裂いた布ぎれで首を絞めら...

沖縄旅行記 2009 (4)国立沖縄青少年交流の家で体験活動

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これから2日間、「 国立沖縄青少年交流の家 」というところに宿泊します。 ここは、「渡嘉敷島での体験活動を通して学び合いを深め、豊かな感性を養い、望ましい社会人を育成する」ことを目標として設置されている国立の青少年教育研修施設です。 今回は、これまでのリゾート一辺倒の沖縄滞在の方法を少し変えて、我が家の子ども達に少しでも体験学習をさせることができたらと考えここを選びました。 そのため、我がファミリーの研修活動の計画書を作成して事前に届け出る必要があります。至極簡単なものですが。 交流の家に到着するなり、施設利用の仕方、滞在中のルールなどについてのオリエンテーションがありました。毎日午後4時30分には団体代表による連絡会議、午後5時と午前7時には交流の家に滞在する全員によるつどいがあります。つどいでは、国旗及び交流の家の旗の掲揚・降納が行われるとともに、各団体の代表による団体紹介が行われます。我が家の場合は、初日が妻で二日目は長女がその任につきました。 交流の家到着直後は、時間やルールに拘束されて勝手が違うし、少々とまどい気味でしたが、慣れてくればなんてことはありません。それに、私の場合は普段より規則正しい生活を送ることができました。交流の家の職員の方々もとても親切で暖かい方ばかりです。子どもたちもたくましくなったような気がします。 交流の家の事務室 無断で撮っちゃいました。ごめんなさい。 赤間山頂上付近から見た交流の家 中央の建物が本館です。 左の白い屋根が体育館。中央が宿泊棟、右の建物が食堂「ちゅら海」 交流の家本館 展望台から見る慶良間諸島 交流の家の西展望台からの眺めは、絶景です。 (つづく) 【関連記事】 沖縄旅行記 2009 (1) 旅のはじまりは首里城散策から 沖縄旅行記 2009 (2)牧志市場で舌鼓 沖縄旅行記 2009 (3)12年ぶりの渡嘉敷島へ 沖縄旅行記 2009 (4)国立沖縄青少年交流の家で体験活動 沖縄旅行記 2009 (5)歴史を学ぼう、戦跡参り 沖縄旅行記 2009 (6)渡嘉敷島といえば、海 沖縄旅行記 2009 (7)再び、とかしくビーチへ 沖縄旅行記 2009...

沖縄旅行記 2009 (3)12年ぶりの渡嘉敷島へ

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沖縄滞在二日目。朝9時泊港発の「高速船マリンライナーとかしき」で渡嘉敷島に渡りました。「フェリーけらま」の半分の35分という短い船旅ですが、海は荒れていないのに、高速船ゆえか、ゆれるゆれる。 渡嘉敷港に着く頃には、家族全員軽い船酔いでぐったり状態でしたが、海の見事な青さと、 レンタカー の窓がら入る海風で気分がまぎれました。 泊港(とまりん)と、渡嘉敷行きのチケット売り場 高速船マリンライナーとかしきと待合室 渡嘉敷港にあったサバニ型漁船 渡嘉敷島のことを少しご紹介します。 渡嘉敷島は、那覇市の西約321Kmに位置します。人口は約750人、周囲約28Kmの小さな島で、渡嘉敷・渡嘉志久・阿波連の3集落から成り立っています。 渡嘉敷島は、豊かなサンゴ礁や多くの熱帯魚が泳ぎまわり、2005年にラムサール条約の登録地となるほどすばらしい海に囲まれています。 島の北側にある赤間山の上方には、国立の青少年交流の家があり、敷地内には、沖縄本島が見える東展望台、ケラマ諸島が見渡せる西展望台や集団自決跡碑が、山へ上る途中には戦没者を奉る「白玉之塔」があります。 渡嘉敷港の旧待合室2階には珍しいクジラの骨格標本を展示している資料館があります。 島は85%が森林です。ダムもあって、小さい島ですが、水は豊富です。 電気は火力発電で、渡嘉敷港横に発電所があり、この島からケラマの他の島々へ海底ケーブルで電気を送っています。 渡嘉敷島全景(渡嘉敷村ホームページ) 渡嘉敷島のWEB情報は、たくさんあります。ちなみに、3つほどご紹介します。最後のブログは私のお気に入りの一つで毎日チエックしています。 渡嘉敷村公式サイト http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/ 渡嘉敷島情報 http://www.cosmos.ne.jp/~ran35/index.htm 渡嘉敷島通信 アイランズ・スケッチ http://tokashikijima.ti-da.net/ (つづく・・・) 【関連記事】 沖縄旅行記 2009 (1) 旅のはじまりは首里城散策から 沖縄旅行記 2009 (2)牧志市場で舌鼓 沖縄旅行記 200...

沖縄旅行記 2009 (2)牧志市場で舌鼓

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沖縄初日の夕食は、那覇市・牧志市場の中にある食堂で、沖縄近海で穫れた新鮮な海産物をいただきました。昨年この市場を訪れた際に、時間が遅く残念ながらどの店も閉店していたので、今年こそはと決めていたのです。 市場入口近くにあった陽気なシーサー 賑わいのある市場の様子 市場の魚屋さんに並ぶ鮮やかな魚たち スマイルブタさんの頭も商品 食堂は人だかり。行列をなしているお店もあります 1階の市場で選んだ食材はこんな料理で登場 牧志市場では、1階にある魚屋さんに並ぶ色鮮やかな魚たちの中から食べたいものを選んで、2階の食堂で調理してもらうことができます。見たことも食べたこともないものばかりなので、どのような料理になって出てくるのか少々不安でしたが、見た目も味も結構いけました。市場というリーズナブルなイメージには似合わないお値段ではありましたが・・・。 食後の仕上げはブルーシールアイスクリーム 沖縄初日の宿は、泊港(とまりん)脇の  沖縄かりゆしアーバンリゾート ナハ  というホテルでした。 明日はいよいよ待望の渡嘉敷島に渡ります。渡嘉敷島は12年ぶり3回目の訪問。 澄みきった海・空につつまれ、熱帯魚たちとたわむれることを楽しみに眠りにつきました。 (つづく) 【関連記事】 沖縄旅行記 2009 (1) 旅のはじまりは首里城散策から 沖縄旅行記 2009 (2)牧志市場で舌鼓 沖縄旅行記 2009 (3)12年ぶりの渡嘉敷島へ 沖縄旅行記 2009 (4)国立沖縄青少年交流の家で体験活動 沖縄旅行記 2009 (5)歴史を学ぼう、戦跡参り 沖縄旅行記 2009 (6)渡嘉敷島といえば、海 沖縄旅行記 2009 (7)再び、とかしくビーチへ 沖縄旅行記 2009 (8)また来年、渡嘉敷島 沖縄旅行記 2009 (9)「ちゅら海水族館」ははずせない 沖縄旅行記 2009 (10)沖縄戦争資料館 沖縄旅行記 2009 (11)平和の礎と摩文仁の丘 沖縄旅行記 2009 (12)バイバイ沖縄 沖縄旅行記 2009...

沖縄旅行記 2009 (1) 旅のはじまりは首里城散策から

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今年も家族で、沖縄の自然と文化を満喫する旅にでかけました。 我が家では、せわしい日常から離れて、太陽・空・海・森etc、おおらかで優しい沖縄の自然に身を置こうと、毎年子ども達の夏休みを利用して沖縄を訪れています。 心地よい潮風、エメラルドグリーンに輝くサンゴ礁の海、真っ白な砂浜の美しいビーチは、日頃のストレスや疲れを一気に吹き飛ばし、まっさらな気持ちにしてくれます。 今年も、子ども達は、カラフルな熱帯魚たちと戯れるシュノーケリングや、爽快な風をカラダいっぱいに感じるシーカヤックなど、マリン天国の海遊びを満喫したようです。 今日から数回に分けて、家族旅行を通じて体感した沖縄をご紹介したいと思います。 沖縄・那覇空港に到着。現地の天候はビッグ快晴。でも暑い! まずは、沖縄そばで腹ごしらえ(那覇空港到着ロビーフロアー「そば処 琉風」) 沖縄初日は、 首里城 散策からスタート。これまでにも何度か訪れたことがありますが、なぜか正殿しか見ていませんでしたので、今回は、正殿周辺の遺跡を中心に見て回ることにしました。 現地でもらった観光パンフによれば、首里城の創建は14世紀頃と言われていますが、詳しいことはわかっていないそうです。その後、1406年に尚巴志が琉球国支配のため居城として以来、1879年、最後の国王・尚泰が明治政府に明け渡すまで、約500年にわたって琉球王国の政治・外交・文化の中心地として栄華を誇ったそうです。 首里城には、中国や日本、東南アジアなどとの交易から様々な文化がもたらされ、漆器、染織物、陶器、音楽など、琉球独特の文化が花開いたそうです。1945年の沖縄戦で廃墟に帰した首里城は、1992年、沖縄の本土復帰20周年を記念して復元されました。 首里城は、中国と日本の築城文化を融合した独特の建築様式や石組み技術には高い文化的・歴史的価値があるとされ、日本では2000年12月、11番目に首里城跡は世界文化遺産に登録されました。 守礼門(しゅれいもん) 尚清王時代(1527-1555)に創建。「守礼之邦」とは礼節を重んずる国という意味。 歓会門(かんかいもん) 首里城の城郭内に入る第一の正門。尚真王時代(1477-1526)に創建された。 久慶門...

生を記憶に刻み直す夏

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我が国は今日(8月6日)、広島原爆の日を迎えました。 毎年この時期になると、戦争を振り返る報道が多くなります。 被爆国として、敗戦国として、戦争の無残さを心に刻み直し、平和への希求を改めて考えるよい機会だと思います。 米国・オバマ大統領の「核兵器のない世界」演説が実効性を持って機能する世界、人と人が殺しあう戦争・紛争のない世界の実現を心から願って止みません。 今日は、最近の「天声人語」(朝日新聞)をご紹介します。 8月5日付 この時期に曇天が続くと、どうにも落ち着かない。五感に染み込んだ日本の8月といえば、青空、蝉(せみ)しぐれ、かき氷。そこにはいつも、追憶の香煙が薄くたなびく 「八月の空がまぶしく、かつ青ければ青いほど、なぜか戦争への思いが深まります。八月の空と海。父の愛した空と海が、ともに青く澄みつづけるように、二度と惨劇の舞台にならないように、と願うばかりです」 『城山三郎が娘に語った戦争』(朝日文庫)で、亡き作家の次女井上紀子さんはそう記す。皇国を信じ、裏切られた。海軍体験に根ざした城山さんの反戦思想は筋金入りで、とりわけ非道の極み、自爆攻撃の特攻を憎んだ 沖縄の海に散った22歳の慶大生が、出撃前夜にしたためた一文から引く。「権力主義の国家は一時的に隆盛であらうとも必ずや最後には破れることは明白な事実です・・・明日は自由主義者が一人この世から去つていきます。彼の後ろ姿は寂しいですが、心中満足でいつぱいです」 死を前にこれほどを書き残せる若い知性が、何千何万と理不尽な最期を強いられた。この遺書を著作で紹介した保阪正康さんは、「日本の戦時指導者への最大の告発のように思えてならない」と断じている 忘れてならない魂の叫びは、世界に散らばる。『アンネの日記』が先日、人類が残すべき史料としてユネスコの記録遺産「世界の記憶」に登録された。そのユダヤ人少女が、隠れ家から強制収容所へと連行されたのは65年前のきのうだった。国を問わず、有名無名の生を記憶に刻み直す夏である。 8月6日付 使ってしまった国の大統領が廃絶を口にし、隣国の独裁者が実験を重ねる核兵器。かすかな希望と、空恐ろしい現実のはざまで、広島原爆の日を迎えた。あの時生まれた命は64歳になるのに、人類の歩みの、なんと遅いことか 原爆の夜に交錯した生と死。詩人...

裁判より裁判員?

8月3日(月曜日)、全国初の裁判員裁判が、東京都足立区の隣人殺害事件を対象に東京地裁で開かれました。 裁判員制度の是非、裁判員裁判の状況に関する報道がここ2~3日紙面を賑わせています。 全くの偶然ですが、裁判員裁判が始まった日、なんと私は仕事で裁判所の法廷にいました。 といっても裁判員としてではなく、大学を当事者とする公判の傍聴者としてです。 大学には様々なリスクが存在し訴訟に繋がるケースもあります。 トラブルの原因は、たわいもないことことだったりすることが少なくなく、小さな芽の段階でどうして摘み取ることができなかったのだろうと悔やまれることがあります。 国立大学は、国の時代には、訴訟は人的にも財的にも全て国家が面倒見てくれましたが、法人化後は、訴訟費用は自己財源から捻出し、弁護士も自分で雇い裁判を闘わなければならなくなりました。 そのために、保険に入る必要がありますし、国が面倒を見てくれなくても、なぜか法務省や文部科学省への報告は逐次行わなければなりません。 訴訟のために多くの時間や労力を裂かなければならなくなり、業務の停滞を招くことが多くなりました。 日常のリスク管理の徹底、内部統制体制の強化は、いまや健全な大学経営の大きな柱の一つになりました。 さて、私が出向いた法廷では、原告・被告双方の証人尋問が休憩なしで2時間続きましたが、黙って聴くだけの傍聴でさえ頭痛がしてくるほど疲れましたので、幸か不幸か裁判員に選ばれた方々は、本当に重労働を課せられているのだろうと敬服した次第です。 それにしても、最近の報道は、裁判の内容より裁判員のことに偏った記事が多いようですが、違和感があるのは私だけでしょうか。 (参考) 「国民の視線にさらされる裁判」(NHK解説委員室)

地方国立大学と地域貢献

前回の日記では、「国立大学の存在意義」について触れましたが、現在我が国には86の国立大学が設置され、規模・教育研究分野・立地条件等により、それぞれの使命や役割が異なっています。特に、地方に位置する国立大学は、大都市圏に立地する大学と異なり、立地する地域に根ざした取り組みを一つの特色としてその存在意義を確かなものにする戦略を考えていかなければなりません。また、国立大学の教育研究成果の地域への還元の期待は高く、地方国立大学における地域貢献は、大学が生きていく上で不可欠な存在意義のひとつになっています。 地方国立大学は、大都市圏にある大学に比べ、寄付金や研究資金など外部からの資金獲得面において劣性に立たされています。このため、大学経営は、税金を原資とした運営費交付金へ依存せざるを得ません。しかし、そういった資金獲得面の制約の中でも、地方国立大学は、他大学にはない特色や個性を発揮しながら様々な改革努力を重ね、いわゆるリージョナルセンターとしての役割を果たしていかなければなりません。 現在、中央教育審議会など政府レベルでは、少子化など今日の大学を取り巻く状況を踏まえ、「質の保証」、「国際競争力の向上」など様々な課題について、我が国の大学の将来展望と対策についての議論が進められています。中でも、「人口減少期における我が国の大学の適正規模」といった課題の解決策として、いわゆる「機能別分化」を超えた取り組みの一つとして、今後、経営上危機的な状態にある私立大学や、国の政策に適合しない分野を有する国立大学については、収容定員の適正化のほか、組織的連携、つまり大学の統合・再編といった大胆な改善手法を求められる可能性は十分にあります。 こういった状況を踏まえれば、地方大学における地域貢献は、当該大学の存在意義をより強力に主張していくためにも、より積極的な方向に変容していくことになっていくことでしょう。しかし、このことが一方では、国立大学の存在意義に疑問を呈することにもなりかねないことを注意しておかなければなりません。 最近では、立地する地域の自治体や企業等との間で、連携協力のための協定を締結する大学が多く見受けられるようになりました。特定の事項に関する協定もあれば、総合的相補的関係を主眼とした包括的な協定を締結する大学もあります。こういった動き、つまり協定締結の結果として、...

国立大学の存在意義と学納金

少子化に伴う全入時代の到来に伴い、大学には様々な改革努力が求められるようになりました。 特に大学経営に関わるマネジメントは重視され、私立大学では、予定された学生確保がままならない状態、つまり定員割れを起こしている大学が全体の約半数に迫る危機的な状況となっており、学生募集停止の報道が後を絶ちません。 また、運営費交付金という税金が投入され、安定した経営が保障されている国立大学であっても、授業料・入学料・検定料といった学生納付金が予定どおり確保できない場合は、その減収分の事業展開あるいは人の雇用を停止しなければならず、結果的には教育研究の質の低下に直結することになります。 したがって、学生の収容定員の確保は、新入生はもとより、入学後の休学・除籍・退学者数の抑制を含め、大学にとって極めて重要な経営課題の一つとなります。 先日、国立大学の事務職員への就職を希望し就職活動を行っている学生達と話をする機会があり、面接試験対策と称して「国立大学の存在意義、役割・使命についてどう考えるか」という質問をしてみたことがありました。 多くの学生にとっては想定外の質問のようでしたが、中には間髪を入れず的を得た明確な回答をした学生もいました。想定外の質問であっても、日頃から社会の様々な動きについて問題意識を持って考える習慣をつけている学生は、おそらくこういう時に力が発揮できるのだろうと改めて教えられました。 さて、彼らの回答の中で、国立大学の存在意義について、特に私立大学との比較において最も多かった回答が、「高等教育の機会均等の保障」でした。家計や経済の状況によって、能力や意欲がある学生が、大学への進学の道をあきらめることのないよう、私立大学に比べれば低廉な授業料が設定されていることが、国立大学の存在意義の大きな柱の一つです。もちろん学費が安いだけではなく、税金が投入されていることに関わって、国立大学には公的な機関としての社会的責任、つまり社会への貢献などの使命も課せられています。 このように、教育の機会均等の保障をはじめ、国立大学の存在意義を理解していた学生が予想以上に多かったことは、国立大学に勤務する者としては、大変うれしく、一方では責任の重大さを改めて感じたところです。 これまでも、この日記では、就学や進学のための学生支援の重要性について何度か触れてきま...

沖縄・子乞いの島

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「誰でもいいから殺して自分も死にたかった。」 最近、ガソリンをまいて放火し人の命を奪ったいたましい犯罪が起こりました。職がない・生活していけない・夢も希望も失った人間が自暴自棄になって、いとも簡単に無差別殺人に走る恐ろしい時代になりました。自殺者も激増しているといいます。 こういった死に直面した人の原因や動機は様々でしょうが、彼らが生きる力を失っていることは確かです。では、彼らの中に再び生きる力を蘇らせるためにはどうしたらいいのでしょうか。 私達の国は、戦争に敗れて以来、国民の懸命な努力によって今日のような世界のリーダーとしての立派な国に成長しました。敗戦時の荒廃と貧困から必死になって抜け出してきたという実績、それを支えた国民の生きる力は、今日社会問題化している課題の解決にとって一つの手がかりになるのではないかと思います。特に、あの戦争で我が国最大の悲劇が繰り広げられた沖縄に目を向け考えてみることも必要かと思います。 戦争の傷跡が未だに残っている、騒音を響かせる米軍基地が島の主要部分を占める、米軍人による人権を無視した犯罪が耐えないなど、沖縄の人々にとって戦争はまだ終わっていません。しかし、戦争のために全てを失った沖縄の人々が、今も犠牲者として暗く悲しい生き方をしているでしょうか。いいえそうではありません。あの戦争の悲劇を二度と繰り返さないという誓いを心に秘め、悲しみや悔しさを乗り越え今という時を懸命に生きています。また、沖縄は、海・空・山という大自然に恵まれ、子ども達は、この雄大な自然に包まれ生きるとともに、人情味ある多くの年老いた村人たちによるコミュニティが、平和の大切さや命の大切を教え伝えてくれます。 私はこんな沖縄に接したくて、毎年家族とともに沖縄を訪問することにしていますが、年に一度のわずかな時間の滞在であっても、沖縄の人々と交わるうちに、心が癒され、人間としての生き方を学ぶことができているような気がしています。 そんな沖縄にも、少子化の波が押し寄せています。日本人として、沖縄の心の文化が損なわれようとしている厳しい現実に目を背けるわけにはいきません。 子乞いの島(2009年7月8日 朝日新聞 論説委員室から) 沖縄本島から南西約450キロ。鳩間島はイリオモテヤマネコで知られる西表島の北に浮かぶ周囲3.9キロ、面積がわずか1平...