2019年12月29日日曜日

記事紹介|国民という部品

無人支配

国民を部品とみなすのは、制度と化した国家に隠れて命令を下す官僚であり、その「無人支配」が徹底できるのも「共に生きる」意志をもった人間が圧倒的に少ないからなのだ。

国民は国家という道具が「知」を上から命ずるだけのことを唯々諾々と受けいれる。その道具の示す方向が合理的とみなされてしまうからだ。

日本の場合、「人間」が自主的に「共に生きる」場としての「社会」を持たず、「国家」というシステムのなかで「国民」という部品として躾けられており、そこでは官僚が国家という隠れ蓑に隠れて国民を統治する「無人支配」がいまでも継続されていることになる。

哲学者カントは自らに例外を設ける者を「悪人」と呼び、自分自身を「秘密裡に免除する傾向がある」と喝破した。だからこそ、官僚による無人支配という秘密裡な行為を防止するための公開性(publicity)が求められているのだ。しかし、それゆえに日本の官僚は「のり弁」と呼ばれる黒塗り状態で公文書を開示してすませている。「悪人」そのものの所業だ。

悪の凡庸さ

法を遵守するだけでその執行を思考停止状態で行う官僚がいまでもあちこちにいる。とくに、日本の官僚のほとんどすべてがこの範疇に入るかもしれない。これが可能なのは、「標準化」のおかげだ。

官僚による命令が局所的に可能となるのは、その命令を執行する末端まで、「標準化」による基準が有無を言わせぬ執行を可能にするからである。これは、何も考えないでただ執行するというかたちで官僚が権力を行使することを可能にし、同時に、その権力行使を受ける側もその標準化を受けいれることで、何も考える必要がなくなる。

つまり、命令する側とその命令に服従する側との間に「無思想性」という相互関係が成立するのである。だから、官僚にはいつも「悪の凡庸さ」がつきまとっている。

(出典)新官僚論 「テクノフォビア」を脱却せよ - 塩原俊彦|論座