2015年2月24日火曜日

無知の知

ブログ「教授のひとりごと」から「底知れぬ「無知」」(2015年02月13日)をご紹介します。


日経新聞(1/29付けの夕刊紙)に批評家の若松英輔氏が『底知れぬ「無知」』と題して寄稿している。

何かを本当に知りたいと思うなら、心のうちに無知の部屋を作らなくてはならない。分かったと思ったとき人は、なかなかそれ以上、探求を続けようとはしないからだ。

(略)

哲学の祖と呼ばれているソクラテスは、哲学の極意は「無知の知」を生きることだと語った。本当に知らない、と心の底から感じることが、哲学がはじまる場所だというのである。

ソクラテスがいう「哲学」とは、単に知識を積み重ねることではない。むしろこの人物は、いたずらな知識は不要だと感じていた。それは、真実にふれようとすること、あるいはそれを探求している状態を意味する。


(略)
哲学を意味するギリシア語は「知を愛する」ことを意味した。愛するという営みは、それが何であるかを断定しない、しかし、そこに語りえない意味を感じることだといえないだろうか。

仕事を愛するという人は、その仕事にめぐり合えたことの幸福を語る一方で、自分がそれを極めることはないだろうことを感じている。仕事は解き明かすことのできない、人生からの意味深い問いかけに映っている。また、愛することは、ときに静かな苦役を伴う。苦しみに意味があることを知っている。そうした道を生き抜こうとする者は皆、力を伴った徳を具(そな)えている。

ここでの「仕事」は、金銭を手に入れることを意味しない。人間が、その人に宿っている働きをもって、世界と交わることを意味する。子育て、病む者を介護することをはじめ、家族の無事をおもんばかることが、重要な人生の仕事であることはいうまでもない。


「仕事とは何か?」や「愛とは?」というテーマを語るのは難しい。仕事や愛のとらえ方は人によって異なるだろうし、「正解」というのはないのだろう。人それぞれが人生のなかで考えていくしかない。そういう意味でも我々は考え続けることが必要だといえる。

知らないことを知っている領域ならば、学習するなどの手立てがたてやすい。しかし、知らないことすら知らない領域をいかに意識できるかは大変だろう。やはり分野を超えた人たちとの議論が欠かせない。同じ分野・領域のなかだけで済む場合もあるかもしれないが、イノベーションを起こすには異分野との交流も大事となる。

知っている領域だけに満足せずに、知的関心の領域を広げていくところが大学でもある。大学は専門領域だけでなく、それを超えた分野との交流を促す仕組みを積極的につくることも必要だろう。本学は総合大学となっているが、各領域・分野の垣根を越えた交流を促進していくことも大切だ。