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まず時間からスタートせよ (ドラッカー)

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私の見るところでは、成果をあげる者は、仕事からスタートしない。 時間からスタートする。計画からもスタートしない。 何に時間がとられているかを明らかにすることからスタートする。 次に、時間を管理すべく、時間を奪おうとする非生産的な要求を退ける。 そして最後に、得られた自由な時間を大きくまとめる。 ドラッカー名著集1 経営者の条件 P.F.ドラッカー ダイヤモンド社 発売日:2006-11-10 ブクログでレビューを見る»

日本の為に祈りを。日本を守りましょう。

田中好子さんのご冥福をお祈りいたします

記憶に残したいと思いましたので転載させていただきます。 田中好子さんからのメッセージ・全文です (NHK科学文化部(かぶん)のブログ) 乳がんのため、55歳で亡くなったスーちゃん、田中好子さん。 きょうの告別式では、先月前に病床で録音された、肉声のメッセージが公開されました。 内容を全文ご紹介します。 ◇ こんにちは、田中好子です。 きょうは3月29日、東日本大震災から2週間経ちました。 被災された皆様のことを思うと心が破裂するような、破裂するように痛み、ただただ、亡くなられた方々のご冥福をお祈りするばかりです。 私も一生懸命病気と闘ってきましたが、もしかすると負けてしまうかもしれません。 でもその時は必ず天国で被災された方のお役に立ちたいと思います。 それが私のつとめと思っています。 今日お集まりいただいたみなさまにお礼を伝えたくて、このテープを託します。 キャンディーズでデビューして以来、本当に長い間お世話になりました。 幸せな、幸せな人生でした。心の底から感謝しています。 特に蘭さん、美樹さんありがとう。2人が大好きでした。 映画にもっと出たかった。テレビでもっと演じたかった。 もっともっと女優を続けたかった。 お礼の言葉をいつまでもいつまでもみなさまに伝えたいのですが、息苦しくなってきました。 いつの日か、妹・夏目雅子のように、支えて下さった皆様に、社会に、少しでも恩返しできるように復活したいと思っています。 かずさんよろしくね。その日までさようなら。

「やっぱりお父さんはすごい」 被災児童の日記

記憶に残したいと思いましたので転載させていただきます。 東日本大震災:「顔が水より冷たく…」 被災児童が日記 (2011年4月25日 毎日新聞) 「お父さんが軽トラでもどっていった姿を見ました。津波にのみ込まれませんように。そう祈っていました」。巨大地震と大津波が東日本を襲ったあの日、子供たちは何を見、その後をどう生きたのか。岩手県山田町の町立大沢小学校を3月に卒業した箱石佑太君(12)が毎日小学生新聞に寄せた体験日記には震災と向き合う姿が率直につづられていた。 3月11日 卒業式の歌の練習をしていました。とてもゆれの大きい地震が来ました。最初は単なる地震だと思っていました。大津波警報が出ても、どうせこないと思っていました。来たとしても10センチメートル程度の津波だと思っていました。全然違いました。ぼくが見たのは、国道45号線を水とがれきが流れているところです。お母さんとお父さんが津波が来る前に大沢小に来ているところは見ました。だけどその後、お父さんが軽トラでもどっていった姿を見ました。お父さんのことが不安でした。車を運転しながら津波にのみ込まれませんように。そう祈っていました。 3月18日 津波から1週間。お母さんは、もうこんなに日がたっているのに、まだお父さんが見えないとあきらめていました。じいやんは泣いて「家も頑張って建てるし、おまえたちだってしっかり学校にいかせられるように頑張るから、お父さんがもしだめだとしても頑張るからな」と言っていました。 3月23日 卒業式でした。「ありがとう」の歌を歌っている時、お父さんに「お父さん、お父さんのおかげで卒業できたよ。ありがとう」と頭の中で言いました。そしたらなぜか、声がふるえて涙が少し出てきました。その夜、こんな夢を見ました。お母さんとお父さんが宮古のスーパーマーケットから帰ってきた夢でした。 3月25日 親せきの人の携帯に電話がかかってきました。内容は、お父さんらしき人が消防署の方で見つかったということでした。急いで行ってみると、口を開けて横たわっていたお父さんの姿でした。ねえちゃんは泣き叫び、お母さんは声も出ず、弟は親せきの人にくっついていました。顔をさわってみると、水より冷たくなっていました。 ぼくは「何でもどったんだよ」と何度も何度も頭の中で言いました。...

時代が求める新しい大学づくりとは

納得の記事をご紹介します。 危機の時代に挑む大胆な大学改革を (2011年4月24日 日本経済新聞) 東日本大震災と原子力発電所の事故は、日本の社会や経済の大きな転機となるだろう。国の将来を左右する人材を育てる高等教育の仕組みもまた、見直しを迫られる。 いま、国の復興と地域や産業の再建に力を発揮する人たちを元気づけ、新たに育てていくことが、かつてないほど国家的な急務になった。グローバル経済の奔流は傷ついた日本の回復を待っていてはくれない。世界と競える能力も以前に増して日本に求められている。 文理の枠を超えて学ぶ 私たちは震災前に掲載したこのシリーズの冒頭、政治や経済、科学や文化などをひっくるめた「国の力」の根幹にあるのは一人ひとりの人間の能力であると主張した。 明日の日本を築くのは国民の「個の力」である。いま、それは一段と重みを持つはずだ。とりわけ、政治や経済、科学などの分野で、危機に際して指導力や専門知識を生かし、組織や社会が目指す方向を適切に判断できる人たちの力が大切だ。 そうした力を育てる日本の高等教育は十分に機能してきただろうか。大学を中心にした高等教育のシステムは、戦後も幾度か改革の試みがあったが、これからはもっと大胆に見直さなければならない。大学の淘汰や再編も避けられないだろう。 まず、大学の1、2年は、文系と理系の枠を超えて幅広い教養を学ぶ機会とするのが望ましい。 若いときに歴史や自然科学など多様な知識に接することが「個の力」を強め、信頼される人材を育てる根幹にもなる。若者が様々な学問に接してから進路を決め、学部や大学を自由に移れるようにしたい。 かつて、大学は学問で結ばれた者たちの共同体だった。それゆえ大学間のライバル意識が強烈な一方で、学者による学者のための閉鎖的な仕組みを内部に残してきた。これを学生中心の開かれた組織に再生しなければならない。 学生中心とは、学生を甘やかすこととは違う。授業料に見合った知識や技能を与え、学生が未来を切り開く力を獲得することに大学が責任を持つということだ。 そのためには大学のなかに様々な専門職が要る。大学教員が入学試験など学内業務に多くの時間を費やしているのが現状だが、これでは本来の教育や研究がおろそかになる。 社会との関係も、大学はもっと深めるべきだ。研究の成果や...

何によって人に憶えられたいか (ドラッカー)

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私が13歳のとき、宗教の先生が生徒一人ひとりに「何によって人に憶えられたいかね」と聞いた。 誰も答えられなかった。 先生は笑いながらこう言った。 「いま答えられるとは思わない。でも、50歳になって答えられないと問題だよ。人生を無駄に過ごしたことになるからね」。 ドラッカー名著集 4 非営利組織の経営 P.F.ドラッカー ダイヤモンド社 発売日:2007-01-27 ブクログでレビューを見る»

東日本大震災が与える示唆

今なお廃墟と化した被災地の映像を見、被災者の吐露する言葉を聴く毎日。私たちは日本人として何を考え、行動していかなければならないのか。共感を覚えた記事がありましたのでご紹介します。 東日本大震災から1ヵ月 生きる意味を揺さぶられた30日間  われわれはいま何を問われているか(2011年4月11日 ダイヤモンド・オンライン) あの日から、ちょうど1カ月が経った。2001年の9.11がアメリカの世界観を変えたように、3.11からわれわれの世界を見る目は、大きく変わったように思う。 アメリカにおける世界観は90年代の冷戦の終結による平和の配当から、サミュエル・ハンチントンが予言した『文明の衝突』へと変わり、ときのブッシュ政権はアフガン戦争から、果てはイラク戦争にまで突っ込んでいった。では、3.11が我々にもたらしたものは何だろうか。それは文明に対する「不信」かもしれない。 暴きだされた欺瞞と一筋の光明 世界で最も文明の進んだ先進国の一つでありながら、巨大地震を予知することはできず、堤防も防潮堤や水門も、巨大な津波にいともたやすく乗り越えられてしまった。そして、われわれの豊かさ、利便性、効率性を支えてきた巨大なシステムが、あの時を境に恐怖の源泉となっている。原子力の専門家なる人々の楽観的な見立てはことごとく外れ、完全に信頼を失った。福島第一原発は、いまもなお近隣の土地を殺し、海を殺し続けている。 そして、電力不足で右往左往する大都会は、その利便性と生産力を支えるためのリスクを、補助金という巨額の札束で、田舎の町や村に押しつけていたという構図を、目の前に突きつけられることとなった。 その一方で、われわれが光を見出したのは、自らの犠牲を顧みず自分たちの責任を果たそうとした人々の存在であり、互いに乏しきを分かち合い、助け合う被災者たちの「絆」であった。テレビでインタビューを受ける自治体の長たちから、最初に口を突いて出てくる言葉は、全国からの支援に対する感謝である。NHKで見た老婆は、肉親が行方不明になっていながら「ご迷惑をおかけしております」とマイクに向かって答えていた。私はこの言葉に返す言葉を見出せない。 この三つを前提とするならば、われわれが学んだことは、日本が3.11までの旧社会へ復帰することでよいのかということであろう。言い換えるならば、日本...

政治家よ、学者よ、しっかりしてくれ!

個人的に納得の記事があったので。 菅首相への批判 ただ「辞めろ」は無責任だ(2011年4月14日 毎日新聞) 統一地方選前半戦での民主党敗北を受け、野党だけでなく民主党内からも菅直人首相の退陣を求める声が出てきた。強い余震が続き、東京電力福島第1原発の危機的な状況がなお続く中での退陣論だ。果たして政治がこんな状態でこの難局を乗り切れるだろうか。不安と不信を募らす国民は多いはずだ。 まず、この非常時に退陣要求が出ること自体、菅首相の責任というべきだろう。震災前から予想されていたとはいえ、統一地方選での敗北は多くの国民が原発事故や大震災の被災者支援などに関し、政権の対応に不満を持っている表れである。 ねじれ国会の下、首相がどう復旧・復興策を実現しようとしているのかも、なお明確ではない。一時、自民党の谷垣禎一総裁に入閣を持ちかけたが、拒否されるとその後はなしのつぶてだ。首相を支える民主党執行部も今度は与党の国民新党への気兼ねなのか、この時期およそ優先度は低いと思われる郵政改革法案を審議する特別委員会を12日設置した。自民党が反発するのは当然だ。 既に指摘したように何より首相には「最終責任は自分が取る」という迫力が欠けている。「非常時だから野党は協力するのが当たり前だ」といった謙虚さに欠けた姿勢では、やはり与野党の協力体制はできない。 ただし、だからといって今、首相退陣を求める意見にも到底、賛同はできない。谷垣氏は「菅首相は国民の厳しい声にどう応えるか、自ら判断すべきだ」という。自発的に辞任せよというわけだ。だが、菅首相が退陣し、どんな体制を作ればよいのか。具体的な言及はない。 当面、衆院を解散して民意を問うことができないのは野党も承知のはずだ。では、首相さえ交代すれば連立を組んでもよいと考えているのか、あるいは「私が首相になる」と谷垣氏は考えているのか。このリーダーのもと、こんな体制にすれば原発対応も復興も進むという具体的な案もないまま、ただ「辞めろ」というのは無責任というものだ。 民主党内では小沢一郎元代表が13日、菅首相を強く批判する書面を出し、小沢元代表を支持するグループから退陣論が出ているが、こちらも「首相交代した後、どうする」が見えない。 仮に今、首相が交代すれば、国民のみならず、国際社会も「いよいよ日本は政治の統治能力を失っ...

ツイッターの活用から見る大学の姿

このたびの東日本大震災において、ツイッターの果たした役割を高く評価する記事を最近よく目にします。 このツイッター、利用者人口の増加に相まって、いろんな活用の仕方が生まれてきているようですが、大学の広報ツールとしての存在感も日増しに強くなってきているような気がします。 (参考) 「大学のTwitter利用に関する実態と意向」-全国1128大学/大学人(教員・職員)を対象とした調査による『高等教育界とTwitter(ツイッター)の現在と明日』 -(調査報告書) http://chiikikagaku-k.co.jp/kkjhp/survey/201006/report/report.pdf 要約版はこちらをどうぞ http://chiikikagaku-k.co.jp/kkjhp/survey/201006/report/summary.pdf ツイッターに登録されているアカウントから大学関係者と思われるものを探してみましたが、大学教員による研究室やゼミの紹介、学生個人による課外活動、サークル等の学生グループの紹介のほか、同窓会、生活協同組合、教職員組合等の関連団体による情報発信など、様々なものがありました。 そこで、国立大学法人が大学広報の一環として公式的に発信しているものをいくつかご紹介します。今後のツイッター活用の進展が大いに期待されるところです。  東北大学 Unofficial  @TohokuUniv https://twitter.com/#!/TohokuUniv 宮城県仙台市青葉区片平2丁目1-1に本部を置く日本の国立大学。1907年に設置され、大学の略称は「東北大」。日本で三番目の帝国大学として、1907年(明治40年)に創設された東北帝国大学を前身とした大学である。「研究第一主義」「門戸開放」「実学尊重」の3つを大学理念としている。 ※まだツイートがありません。 koho terui(宮城教育大学) @teruco_mue https://twitter.com/#!/teruco_mue 宮城教育大学の事務職員です。広報担当として、宮教の良さをたくさんの人に知っていただきたいとの思いから、つぶやいています。一応、中学生と小学生の子どもの親でもあります。音楽と野球が好きです。多少その辺の話題に脱...

この日だけは泣くよ 明日へ、また歩むため

つらい内容ですが、どうしても日記に掲載したかった記事なので。 ◇ 俺は父ちゃんだから。泣くのはやめよう。そう決めていた。岩手県釜石市の測量会社勤務佐藤正則さん(55)は震災から1カ月たって、ようやく、亡くした長男正樹さん(18)の思い出に浸ることができた。ふだんは泣けないから。毎月、この日だけは兄ちゃんのことを思い出して泣くよ。 ダウン症だった正樹さんは、12歳から特別支援学校の寄宿舎に入っていた。自活する力を身に付けてほしかったから。 震災後、火葬場で正樹さんだけの卒業式をした。「卒業したら、ちゃんと働きたい」。特別支援学校の校長から手渡された文集に書かれた夢。卒業証書とともに持ってきてくれた。誰かが「おめでとう」と声を掛けてくれた。それで十分だった。自分も声を掛けたら、きっと我慢できない。 3月に入り、インフルエンザの流行で学級閉鎖になり、久しぶりに根浜海岸に近い鵜住居地区にある家に戻ってきたところだった。 あの日、経験したことのない強烈な揺れに、すぐに津波が来ると分かった。避難した高台から防潮堤をやすやすと乗り越えてくる津波を見てぞっとした。 夕方。水が引いたのを待って鵜住居に戻った。家は崩れ、内陸側に約100メートル流されていた。近所の人から、近くの避難所に家族がいると聞き、合流した。正樹さんの顔だけがなかった。「兄ちゃんはどうした」「家にいたけど、分からない」 寒い日だった。「早く助けてやらねえと」。夜、懐中電灯を持って、1人で家に戻った。がれきをかき分け、隙間を照らす。1時間ほど作業を続けた。白く、冷たくなった正樹さんを見つけた。 高台に連れて行った。息をしていないのは分かっている。それでも、なんとかしてやりたいと思って泥をぬぐい、服を着替えさせた。「明日になったら、病院に連れて行ってやっかんな」と声をかけ続けた。応えてくれない正樹さんの隣に座り、一晩中泣いた。 泣いたのはそれっきりだった。家族がいる。俺は家長、父ちゃんだ。泣くわけにはいかなかった。生きてゆくための煩雑な手続きで時間はあっという間に過ぎた。 震災から1カ月たった4月11日午後2時46分。釜石の隣にある大槌町の城山公園に上った。津波にのまれた町を見下ろし、正樹さんとの思い出に浸ることを初めて自分に許した。 寄宿舎で使っていた歯ブラシを手にし...