学力は高いのに、好奇心は低い——PISA2025が大学に問いかけていること
2026年9月、ある国際調査の結果が話題になりました。「PISA」と呼ばれるこの調査は、OECD(経済協力開発機構)が3年ごとに実施している、世界中の15歳を対象とした学習到達度調査です。単なる知識量のテストではなく、学んだ知識や技能を、現実の課題にどう活用できるかを測るものです。今回は91の国・地域から76万人以上の生徒が参加し、日本は数学的リテラシーが5位、読解力が4位、科学コンピテンシーが5位となりました。3分野すべてでOECD加盟国中1位という結果は、調査が始まって以来、初めてのことです。この結果は、複数のメディアで広く報じられました。
数字だけを見れば、日本の教育は胸を張っていい成果を残したと言えるでしょう。
ところが、この「高い学力」という結果だけでは、今回のPISAを語り終えることができません。同じ調査の中に、大学にとってむしろ気になる数字があったからです。
「好奇心が低い」というデータ
PISAでは学力を測る問題だけでなく、生徒自身の考え方や行動を尋ねる質問調査もあわせて行われています。そこで、「いろいろなことに好奇心がある」と答えた日本の生徒は63%にとどまりました。OECD平均は73%です。「物事がどう動くのか知りたい」という問いへの回答も、参加国の中でかなり低い水準にとどまっています。学力は世界トップ級なのに、「知りたい」という気持ちは、国際的に見ると弱い。この二つの事実が同時に出てきたところに、今回のPISAの本当の意味があると私は考えています。
もうひとつ、見過ごせない数字があります。AIを学校の勉強に週1回以上使う生徒は日本では27%で、OECD平均46%を大きく下回ります。逆に、学校の勉強でAIをほとんど、またはまったく使わない生徒は39%で、OECD平均14%の3倍近くにのぼります。学校学習におけるAI利用の指数で見ると、比較可能な82の国・地域の中で、日本は最下位でした。
ただし、ここで注意しておきたいことがあります。PISA2025は「AIをたくさん使えば成績が上がる」とは言っていません。AIの利用と成績の関係は複雑で、大切なのは利用頻度そのものではなく、目的を明確にした適度な利用や、AIが出してきた情報の質を自分で評価できるかどうかだとされています。つまり「AIを使っていないから遅れている」という単純な話ではないのです。
私は、これらの数字を高校までの教育だけの問題として片づけるべきではないと思っています。ここから先、大学がどう考え、どう行動するかによって、この結果の意味はまったく変わってくるからです。
実は、学校を嫌っているわけではない
ここでもう一つ、興味深いデータがあります。「学校は時間の無駄だ」と感じている日本の生徒は6%しかいません。OECD平均は24%です。つまり日本の15歳は、学校を嫌っているわけではないのです。学校にはきちんと適応し、学校の価値も認め、学力も高い。それなのに、「自分は何を知りたいのか」というところが弱い。
これは、大学にとってむしろ怖い問題だと私は思います。学校教育に反発しているから好奇心が失われているのではなく、うまく適応した先で、「なぜ?」という感覚が静かに削られている可能性があるからです。もちろん、PISAの数字だけから、その因果関係まで断定することはできません。それでも、大学が考えるべき問いとしては、十分に重いものではないでしょうか。
だとすれば、大学に入学してくる学生の多くは、好奇心をゼロから育てる必要がある存在ではなく、まだどこかに残っている「なぜ?」を、これ以上消さずに済むかどうかの分かれ目に立っている存在だということになります。
なぜ、これが大学の問題なのか
高校までの教育は、多くの場合「問題が与えられて、それを正しく解く」という構造でできています。日本の生徒がここで高い力を示したことは、素直に評価すべきことです。
けれども、大学という場所は本来、そこから先に進むためにあります。与えられた問題を解くのではなく、そもそも何が問題なのかを自分で見つけ出す。なぜこうなっているのか、別の見方はないのか、自分なら何を調べるのか。まだ答えのない問いに、自分から近づいていく。それができるようになるために、人は大学に進むのではないでしょうか。
もし大学が、高校までの「正解を出す力」をそのまま延長させる場所になってしまえば、学生は「自分は何を知りたいのか」ではなく、「先生が何を求めているのか」を考えたまま卒業していくことになります。それは、学生個人にとっての損失であると同時に、社会全体にとっても大きな損失です。これから社会に出ていく若者たちに本当に求められるのは、誰かが用意した問題を解く力ではなく、まだ誰も気づいていない問題を見つけ、考え、動かしていく力だからです。
だからこそ、大学に求められているのは「好奇心を育てる」ことだけではないと思います。むしろ、高校までの教育の中でまだ残っている「なぜ?」を、大学が消してしまわないこと。学生が「この先生は何を答えれば評価してくれるのか」だけを考えるようになってしまったら、大学は高校教育の延長になってしまいます。反対に、「先生、それは本当にそうなんですか?」「別の説明はありませんか?」「そもそも、この問題設定自体が違うのでは?」と言える学生を増やせたら、大学教育は大きく変わるはずです。
AIの時代だからこそ、問われる力
今回の調査で、日本の生徒のAI利用が国際的に見て極めて低い水準だったという事実も、軽く見過ごしていい話ではないと思います。
AIは、問いを提案したり、逆に質問を返したり、考えるべき論点を提示したりすることもできます。「AIは問いをつくれない」と単純に言い切ることはできません。それでも私は、「自分は何を知りたいのか」「なぜそれを知りたいのか」という学びの出発点まで、AIに委ねてしまっていいのだろうかと思うのです。
AI時代に人間に求められるのは、AIより上手に答えることではなく、AIとともに問いを深め、その答えを疑い、さらに次の問いを生み出していくことなのではないでしょうか。この役割を担う重要な場所の一つが、大学です。家庭や学校、地域、企業、図書館なども、知的好奇心を育てる場ではあります。けれども大学だからこそ、知識・研究・人・社会を結びつけながら、学生の「問い」をより深いところまで連れていくことができるはずです。
「探究」という言葉だけでは足りない
最近の大学案内やパンフレットには、主体性、探究、イノベーション、アクティブラーニングといった言葉がよく並んでいます。しかし、それらの言葉を掲げることと、実際に学生の好奇心を刺激する教育になっているかどうかは、まったく別の話です。
例えば、「地域の人口減少について調べなさい」とテーマを与えるだけでは、探究とは言い切れません。本当の探究は、「なぜ、この街から若者が出ていくのだろう?」という自分自身の疑問から始まり、そこからデータを探し、人に話を聞き、仮説を立て、また問い直していく。この違いを大学がどこまで自覚できているかで、今回の結果を本当に受け止められるかどうかが決まってくると思います。
大学は、学生の「問い」を育てられているか
私は、大学が入学時と卒業時に、学力だけでなく好奇心そのものを見てみてもいいのではないかと思っています。最近不思議に思ったことは何か。一週間かけて調べてみたいことはあるか。世の中で「なぜ?」と感じていることはあるか。こうした問いを通して、4年間で学生の「問い」がどう変化したのかを見ることができれば、それは就職率や資格取得率よりも、よほど大学らしい教育の成果指標になると思います。
そして、好奇心は授業だけで育つものではありません。教室のあり方、図書館の役割、キャンパスでの偶然の出会い、教員が「教える人」から「学生の問いを引き出す人」へと変わっていくこと、地域や企業が現実の「まだ答えのない問題」を大学に持ち込んでくること。大学全体が、問いが生まれる環境になっていく必要があります。ここまで踏み込まなければ、好奇心を育てるという課題は、いつまでも授業の一部を工夫する程度の話で終わってしまいます。
大学が本気でこの問題に向き合うなら、まず自分たちに次の五つを問いかけてみる必要があると思います。学生は「何を知っているか」だけでなく、「何を知りたがっているか」を語れるだろうか。授業の中に、学生自身が問いをつくる余白はあるだろうか。教員は、正解を教える人ではなく、問いを引き出す人になっているだろうか。キャンパスには、偶然の出会いや「ちょっと調べてみたい」を生み出す仕掛けがあるだろうか。そして、卒業する学生は、入学時よりも「なぜ?」をたくさん持っているだろうか。
高い学力を、何に変えるのか
今回の結果を、「日本の子どもは学力が高い。素晴らしい」というニュースとして読むだけでは、大学にとって何の意味もありません。大切なのは、「この高い学力を、次の段階で何に変えるのか」という問いとして受け止めることです。
日本の教育は、少なくとも「正しく学ぶ力」を育てることには、高い成果を上げています。では、その過程で「なぜ?」を失わせてはいないでしょうか。そして大学は、そこで失われかけた「なぜ?」を取り戻す場所になっているでしょうか。
知識から好奇心へ、好奇心から問いへ、問いから探究へ、探究から創造へ。この流れをつくれるかどうかが、これからの大学に問われています。答えを与える場所から、学生自身が問いを見つける場所へ。
大学が問われているのは、学生にどれだけ多くの知識を与えたかではありません。その知識を使って、卒業後も「なぜ?」と問い続けられる人間を育てられたかではないでしょうか。

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