山本五十六 ― 反対を貫き、そして戦った提督の実像

太平洋戦争を指揮した連合艦隊司令長官・山本五十六。「軍のトップでありながら、日米開戦には反対していた」というエピソードは、多くの方が一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。

しかし、この話をどこまで正確にご存じでしょうか。「反対していたのに、なぜ結局は戦争を率いることになったのか」「その反対とは、いったいどのような性質のものだったのか」――こうした点まで踏み込んで知る機会は、意外と少ないように思います。

本稿では、軍事史研究者による書籍や専門メディアの記事など、信頼性の高い資料をもとに、山本五十六という人物の実像を、できるだけ正確に、そしてわかりやすく整理してみたいと思います。

一、三国同盟への反対 ― 命がけで貫いた信念

山本五十六が日独伊三国同盟に反対していたことは、後世の脚色ではなく、軍事史研究者による著作をはじめ、複数の資料で確認できる史実です。

海軍次官という要職にあった山本は、米内光政海軍大臣、井上成美軍務局長とともに、ドイツ・イタリアとの軍事同盟に最後まで反対を続けました。その根底には、英米との関係悪化が長期化していた日中戦争の解決をさらに困難にするという懸念や、ドイツとの軍事同盟が日本の実質的な国益につながらないのではないかという冷静な分析があったとされています。

この反対は、単に会議の場で意見を述べるという穏やかなものではありませんでした。山本たち三人は陸軍や右翼勢力から「国賊」と名指しされ、脅迫状が届くなど、命の危険すら現実味を帯びるほどの圧力を受けたと伝えられています。海軍大臣であった米内光政が、山本の身を案じてあえて彼を東京の中枢から連合艦隊司令長官という現場の職へ転出させた、という経緯も、複数の記録に残されています。

つまり、三国同盟への反対は、身の安全を犠牲にしてでも貫かれた、確固たる信念に基づく行動だったのです。もっとも、山本たちが中枢を離れた後、海軍全体の空気は変わり、1940年、三国同盟は締結されることとなりました。

二、対米開戦への反対 ― その真意を丁寧に読み解く

山本の対米開戦反対については、「勝てないとわかっていたから反対しただけで、戦争そのものへの反対ではなかった」という見方がしばしば語られます。これはある程度正確な指摘ではありますが、単純化しすぎると、山本の本意を見誤ることにもなりかねません。

山本にはかつて駐米武官として渡米した経験があり、アメリカの工業力の大きさを直接肌で知っていました。「アメリカの工場の煙突の数を数えてきたまえ」という言葉を口癖にしていたと伝えられるほど、彼はアメリカの国力を具体的な実感として理解していたのです。その上で、当時の日本の国力ではとても太刀打ちできないと痛感していたというのが、複数の資料に共通して残る姿です。

よく誤解される、近衛首相への発言

「是非やれと言われれば、初め半年や一年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、二年三年となれば全く確信は持てぬ」

この言葉は、前半の「初めは暴れてみせる」という部分だけが独り歩きし、あたかも山本が開戦に自信を示したかのように語られることがあります。しかし本来重要なのは、後半の「長期戦には確信が持てない」という一言です。山本は最初から、長期戦においては勝算がないことを、はっきりと伝えていたのです。

このように見ていきますと、山本の対米開戦反対は、感情的な平和主義というよりも、国力の差を冷静に見積もった、軍人としての現実的な判断だったと言えます。ただし、これは彼の反対が「本気ではなかった」ことを意味するものでは決してありません。むしろ、具体的な実感に裏づけられた、確信に満ちた反対だったと理解するのが正確でしょう。

三、開戦後の苦悩 ― 個人の信念と、職責のはざまで

山本五十六という人物を理解するうえで、最も重要なのは、おそらくこの部分だと思います。

三国同盟にも、対米開戦にも反対しながら、それを押しとどめることができなかった山本は、皮肉にも、連合艦隊司令長官として、自らが反対していた戦争の作戦を立案する立場に置かれることになりました。

このときの心境を、山本は側近への私信にこう書き残しています。

「個人としての意見(開戦反対)と正反対の決意を固め、その方向に一途邁進の外なき現在の立場はまことに変なものなり。これも命(天命)というものか」

これは戦後になって作られた物語ではなく、当時の私的な書簡に残された、本人自身の言葉です。個人の信念と、組織人としての職責との間で引き裂かれる苦悩は、決して脚色ではなく、史料によって裏づけられた実際の心理であったと考えられます。

真珠湾攻撃という、ぎりぎりの選択

開戦が避けられないと悟った山本は、1941年一月頃には、すでに真珠湾奇襲というアイデアを私信で提案していました。当時の海軍が伝統としてきた、敵艦隊を近海で迎え撃つ「邀撃作戦」を根本から覆すこの構想には、軍令部も当初、危険すぎるとして強く反対しました。

それでも山本は「職を賭してもこの作戦を決行する」という決意を繰り返し伝え、最終的には空母六隻を投入する全力の奇襲作戦として実行に移されました。

なぜ、あれほど対米開戦に反対していた山本が、これほど大胆な作戦に自らの進退を賭けたのでしょうか。専門家の分析によれば、長期戦になれば必ず敗れるとわかっていたからこそ、緒戦において徹底的にアメリカの戦意をくじき、早期の講和交渉に持ち込む以外に道はない、という一種の逆説的な戦略判断があったとされています。すなわち、「必敗」とわかっている戦争において、唯一望みをつなげる方法として、あえて危険な賭けに打って出たのです。

こうして見ますと、山本五十六は「反対していたのに戦争を主導した矛盾だらけの人物」というよりも、「勝てない戦争を託された軍人が、限られた選択肢の中で最善を模索し続けた人物」として理解するほうが、より実像に近いと言えるでしょう。

四、人柄への評価 ― 部下からも一目置かれた理由

山本五十六への高い評価は、政治的な事情や物語の力だけによるものではありません。彼の人柄そのものが、当時から多くの人を惹きつけていたことも、複数の記録が示すところです。

部下の育成にあたって山本が遺した、次の言葉をご存じの方も多いでしょう。信頼と実践を重んじるその指導哲学は、時代を超えて、今なお多くの組織やリーダーの規範となっています。

やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、
ほめてやらねば、人は動かじ。

話し合い、耳を傾け、承認し、
任せてやらねば、人は育たず。

やっている、姿を感謝で見守って、
信頼せねば、人は実らず。

命令や叱責によって人を動かすのではなく、まず自らが手本を示し、対話を重ね、相手を信じて任せる。そのうえで、その努力を見守り、感謝の気持ちを持って接する――この一節には、山本が生涯を通じて実践してきた人材育成の要諦が、簡潔かつ力強い言葉で凝縮されています。軍という厳格な組織の中にあってなお、これほど人間味にあふれた指導哲学を貫いたことこそ、彼が部下から篤い信頼を寄せられた理由の一つだったのでしょう。

もちろん、賭け事や交際関係など、決して聖人君子とは言えない人間らしい一面も記録には残されています。しかしそれもまた、山本五十六が単なる作られた偶像ではなく、生身の人間として多面的な魅力を備えていたことの証と言えるのではないでしょうか。

おわりに

歴史上の人物を語るとき、私たちはつい「英雄」か「戦争責任者」かという単純な二分法で捉えがちです。しかし、史料が示す山本五十六の姿は、そのどちらか一方には収まりません。

信念を貫くべきときには命を賭して貫き、それでも押しとどめることができなかったときには、与えられた立場の中で最善を模索し続ける。その葛藤と矛盾こそが、没後八十年以上を経てもなお、多くの人々の関心を引きつけてやまない理由なのかもしれません。

英雄化しすぎることも、逆に「反対していたふりをしただけ」と切り捨てることも、どちらも史実からは離れた見方です。私たちに求められているのは、史料に基づいて、複雑なままの人物像を丁寧に受け止める姿勢ではないでしょうか。


本稿は、大木毅氏の著作をもとにした文藝春秋オンラインの記事、現代ビジネス、PRESIDENT Online、松下政経塾のレポート、歴史街道など、専門家の見解や取材に基づく資料をもとに事実関係を確認・整理したものです。

本稿を書くきっかけとなった記事:
「山本五十六は海軍の偉い人なのに日米開戦に反対した」戦後にそんな"悲運のヒーロー像"を作り上げたもの(PRESIDENT Online)

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