文官、ただ一人死刑になった男-終戦の日に広田弘毅を考える

今日、8月15日は終戦の日です。

81年前のこの日、日本は戦争を終えました。多くの人が、この日を、戦争で亡くなった方々を悼み、平和について考える日として過ごすことと思います。

しかし、戦争を終わらせることと同じくらい大切なのは、「なぜ、その戦争を止められなかったのか」を問い直すことではないでしょうか。

その問いを考える手がかりとして、今日は一人の政治家を取り上げたいと思います。

名前は、広田弘毅(ひろた・こうき)。

戦前、外務大臣と内閣総理大臣を務めた外交官出身の政治家です。東条英機ほど一般には知られていないかもしれません。しかし広田には、東京裁判で裁かれた政治家たちの中でも、とりわけ特異な立場がありました。

極東国際軍事裁判で死刑を宣告された7人のうち、広田は文官としてただ一人でした。軍歴を持たない、外交官出身の政治家が、東条英機ら軍人たちとともに絞首刑に処せられたのです。裁判は1946年5月3日に開廷し、1948年11月12日に判決が言い渡され、同年12月23日、死刑を宣告された7人の刑が執行されました。

では、なぜ一人の外交官出身の政治家が、軍人たちと並んで死刑台に立つことになったのでしょうか。

そこには、「戦争を起こしたのは軍部だった」という単純な図式だけでは説明できない、当時の政治家と軍部の関係、そして政治家個人が負う責任の問題があります。

広田弘毅の生涯をたどることは、戦争を止められなかった一人の政治家を今さら裁くことではありません。むしろ、「自分なら、あの状況で何ができただろうか」という問いを、自分自身に向けることでもあるのです。

石屋の家に生まれ、外交官になる

広田弘毅は1878年2月14日、福岡県福岡市の石屋の家に生まれました。父が石屋の養子となり、広田姓を名乗った家系だったといいます。

決して裕福な生まれではありませんでしたが、成績優秀だった広田は、福岡の玄洋社関係者から支援を受けて進学しました。学費は玄洋社の平岡浩太郎(初代社長)が提供し、旧制第一高等学校、東京帝国大学へと進みます。また頭山満(とうやま みつる)の紹介で、副島種臣や山座円次郎といった人物とも接点を持つようになりました。

本名は「丈太郎」でしたが、のちに「弘毅」へと改めています。論語の一節「士は以って弘毅ならざるべからず(志を持つ者は、広い見識と強い意志を持たねばならない)」に由来する名前です。しかし皮肉なことに、後年の広田を知る同僚たちの多くは、この名前とは正反対の「意志の弱さ」を指摘することになります。

福岡という土地柄を考えると、広田の人生を語るうえで玄洋社との関係も無視できません。頭山満は玄洋社を率い、国権論・アジア主義を掲げて日本の対外膨張政策にも関与した一方、孫文らアジアの独立運動家を支援した人物でもありました。ここで重要なのは、広田を単純に「右翼政治家」と決めつけることではありません。むしろ、広田の思想的な出発点には当時の福岡に根を張っていた国家主義やアジア主義があり、その後、職業外交官として国際社会と向き合うことになった――という二重性です。この「協調と国家主義」という二つの顔は、広田の生涯を通じて繰り返し姿を現すことになります。

1906年、外交官試験に合格して外務省に入省。同期には、後に首相となる吉田茂がいました。この二人は、のちに全く対照的な生き方を辿ることになります。

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像 広田弘毅」https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/183

外交官としての出世、そして外務大臣へ

外交官となった広田は着実に出世を重ねていきます。北京、ロンドンでの勤務を経て、1923年には欧米局長、その後オランダ公使、駐ソ連大使を歴任しました。そして1933年、斎藤実内閣で外務大臣に就任します。

この時代の日本外交は、すでに大きな転換点にありました。1931年の満州事変、1932年の満洲国建国、1933年の国際連盟脱退。日本は国際社会との距離を急速に広げつつありました。

広田は、そうした時代の外務大臣として中国との関係改善を模索します。1935年には、いわゆる「広田三原則」をめぐる日中交渉が行われました。ただし、広田の外交を単純に「平和外交」と呼ぶことはできません。当時の日本は中国に対して自国の権益や要求を認めさせようとしており、広田自身もその政策を担う立場にありました。国際協調を模索しながら、同時に日本の大陸政策をも背負っていた――そこに広田という外交官の難しさがあります。

二・二六事件、そして首相へ

転機となったのが、1936年2月26日に起きた二・二六事件です。陸軍の青年将校らが東京中心部を占拠し、政府中枢を襲撃したクーデター未遂事件でした。この事件で岡田啓介内閣は総辞職に追い込まれ、後継として組閣の大命を受けたのが広田弘毅でした。1936年3月9日、広田内閣が成立します。外交官出身者としては初めての首相就任でした。

しかし、広田が首相になった時点で、軍部の政治的影響力はすでに極めて大きなものになっていました。それを象徴するのが、組閣そのものをめぐる攻防です。広田は外相に吉田茂を起用したいと考えていましたが、陸軍大臣に選ばれた寺内寿一が「そんな自由主義者は駄目だ」と閣僚人事にまで介入してきました。結局、吉田は外相の座を諦め、駐英大使に回されることになり、広田自身が外相を兼務することになります。つまり広田は、首相になった瞬間から、軍に人事まで左右される立場に置かれていたのです。

運命を分けた決断――軍部大臣現役武官制の復活

広田内閣の時代を語るうえで避けて通れないのが、1936年5月18日に行われた「軍部大臣現役武官制」の復活です。

これは、陸軍大臣・海軍大臣に現役の将官のみを充てるとする制度です。1900年に導入されたのち、1913年には予備役の将官も就任できるよう緩和されていましたが、広田内閣のもとで再び現役規定が復活しました。

この制度には重大な問題がありました。軍が大臣候補を出さなければ、内閣は組閣そのものができなくなるのです。実際、後に宇垣一成が組閣を命じられた際、陸軍が反対したことで陸相を得ることができず、内閣を成立させられなかったという事態が起きています。

ただし、「広田が軍部に脅され、何も考えず制度を復活させた」というのは、やや単純化しすぎた説明です。近年の実証研究によれば、この制度復活の本旨は、二・二六事件後の陸軍内の混乱を収拾する「粛軍」のための人事の一元化であり、加えて事件を起こした皇道派の将官が再び陸相に就くことを防ぐ狙いがあったとされています。広田の側にも、軍の人事を政府の統制下に置こうとする意図があったと考えられています。

ところが、結果は広田の意図した方向には進みませんでした。この制度は後に、軍が閣僚を出さないことで内閣の成立や存続を妨げる強力な手段として機能するようになります。

「悪意のない決断」が、悪い結果を生むことがある。広田の生涯を考えるうえで、これは極めて重要なポイントです。

出典:アジア歴史資料センター「アジア歴史ラーニング」(軍部大臣現役武官制解説)https://jacar.go.jp/learning/term.html?uid=Y40C100055 /国立国会図書館「史料にみる日本の近代」宇垣内閣流産 https://www.ndl.go.jp/modern/cha4/description08.html

「国策の基準」が示したもの

そしてもう一つ、広田内閣の責任として忘れてはならないものがあります。1936年8月7日、広田内閣は五相会議で「国策の基準」を決定しました。これは、大陸における日本の地歩を確保しつつ、南方海洋への進出をも図るという、陸軍の北進論(対ソ戦重視)と海軍の南進論(対米戦重視)を折衷した基本方針でした。戦後の東京裁判では、この文書が日本の南進政策を示す重要な証拠の一つとして扱われました。

ここを踏まえると、「広田は戦争を望まなかったから責任は軽い」という単純な説明は成り立ちません。広田が戦争そのものを熱狂的に求めていたかどうかとは別に、彼は首相として、後の日本の対外膨張につながる重要な国策決定に関わっているからです。

「戦争を望んでいたか」と「戦争につながる政策に責任を負っていたか」は、別の問題なのです。この二つを分けて考える必要があります。

「腹切り問答」と内閣の崩壊

広田内閣は長く続きませんでした。1937年1月21日、衆議院本会議で、陸軍大臣・寺内寿一と議員・浜田国松の間に激しい応酬が起こります。いわゆる「腹切り問答」です。この対立は政党側と陸軍側の緊張を一気に高め、1937年1月23日、広田内閣は総辞職しました。成立からわずか10か月半でした。

しかし、広田の政治人生はここで終わりません。同年6月、第一次近衛内閣で再び外務大臣に就任します。そして、このとき広田は、さらに重大な局面に立ち会うことになるのです。

戦争を止める側だったのか、進める側だったのか

1937年7月、盧溝橋事件が起き、日中間の軍事衝突が始まりました。その後、上海でも戦闘が広がり、日中戦争は全面戦争へと拡大していきます。広田は、この時期の外務大臣でした。

ここで重要なのは、広田を単に「戦争を止めようとした人」とだけ描かないことです。同年11月、広田はドイツに和平の斡旋を要請し、トラウトマン駐華大使を通じた日中間の和平交渉を進めています。一方で広田は、日中戦争を拡大させていった日本政府の中枢にいた一員でもありました。

つまり広田は、「戦争を止めようとした側」と「戦争を進める国家の中枢にいた側」という、二つの立場を同時に抱えていたのです。これを単なる矛盾として切り捨てるのは簡単ですが、むしろこの矛盾こそが、広田という人物を考えるうえでの鍵なのではないでしょうか。

なぜ、広田は軍部に抗しきれなかったのか

では、なぜ広田は軍部に対して強く抵抗できなかったのでしょうか。理由は一つではありません。

第一に、当時の政治制度が抱えていた大きな問題です。明治憲法下では、軍の指揮権(統帥権)は内閣ではなく天皇に直属するとされ、軍部はこれを根拠に「軍事作戦は政府の関与すべき範囲外」と主張することができました。広田自身、戦後の裁判で「軍の活動が緊迫したものになると外交政策はそれに引きずられてしまうことが多い。そうなると外務大臣などほとんど無力化されてしまう」と、この制度的な無力さを率直に認めています。これは広田個人の弱さだけでは説明できず、当時の政治制度が抱えていた大きな問題の一つでもありました。

第二に、広田自身の選択です。制度の制約があったとしても、広田はその中で判断し、妥協し、政策を決定した政治家でした。軍部大臣現役武官制の復活も、「国策の基準」の決定も、広田が首相・外相として関与した事実から逃れることはできません。

第三に、広田の政治的基盤の弱さです。広田は政党政治家ではなく、職業外交官として出世し、そのまま首相になった人物でした。当時の外務省の部下は、広田について「軍部と右翼に抵抗力の弱い人」「頭が良くて狡く立ち回る事以外にメリットを見出せない」とまで厳しく評しています。議会や政党に強固な基盤を持たなかった広田にとって、軍部との正面衝突は、内閣そのものの崩壊に直結しかねないものでした。

だからこそ、広田は「対決」よりも「調整」を選びました。しかし、その調整と妥協の積み重ねが、結果として軍部の影響力を抑えるどころか、かえって強めることになってしまったのです。

「物来順応」という生き方

広田弘毅の人物像を語るとき、しばしば登場する言葉があります。「物来順応(ものきたればじゅんのうす)」。ものが来れば、それに順応する。自分から状況を動かそうとするより、目の前に現れた状況を受け入れ、その中で生きていく――勝敗を忘れ去り自然のままに動くという、剣術の極意に由来する言葉です。処刑直前に残したとされる最後の言葉も、「自然に生きて、自然に死ぬ」というものでした。

この姿勢は、見方によっては一つの美徳です。感情に流されない。勝ち負けに執着しない。逆境に抗わず、自然体で生きる。しかし政治家にとって、それは危うい美徳でもあります。外交官であれば、状況に応じて相手と調整することが重要な資質です。しかし、国家の進路を決める政治家には、ときとして「これは受け入れられない」と言い切る胆力が求められます。妥協することと、責任から逃げることの境界は、決して明確ではありません。広田の生涯は、まさにその境界線上にあったように思えます。

吉田茂との対照

広田の同期には、後に首相となる吉田茂がいました。二人はともに外交官出身でしたが、その政治姿勢は大きく異なります。広田が状況に適応しながら進むタイプだったのに対し、吉田は自分の判断を前面に出して政治を動かす人物でした。

もちろん、吉田が常に正しかったわけではありません。しかし戦後、吉田は首相として、自らの判断で日本の進路を大きく決めていきます。一方の広田は、戦前の政治状況の中で目の前の危機を一つずつ処理しようとし、そのたびに妥協を重ねていきました。その違いは、才能の差というより、政治家としての「決断の仕方」の違いだったのかもしれません。

東京裁判――なぜ広田は死刑になったのか

戦後、広田はA級戦犯として起訴され、極東国際軍事裁判で死刑判決を受けます。訴追の理由は、首相・外相として日本の軍国主義政策を支えたこと、特に軍部大臣現役武官制の復活や「国策の基準」の決定に関わったことでした。さらに、外務大臣在任中に南京における日本軍の残虐行為について報告を受けながら、十分な措置を取らなかったことも、東京裁判で問題とされました。

広田が文官としてただ一人死刑となったことから、戦後の日本では「なぜ軍人ではない広田が死刑なのか」という疑問が繰り返し生まれました。近衛文麿は自死し、松岡洋右も公判前に病没していたため、文官の大物戦犯として広田に注目が集まっていたという事情もあります。「太平洋戦争を止めようとしていた」という国民の印象もあいまって、減刑を求める署名が全国から数十万規模で集まったほどでした。

この疑問は、広田を「軍部の犠牲者」とみなす見方につながっていきます。その後、城山三郎の小説『落日燃ゆ』(1974年刊)によって、広田は「清廉で、最後まで自己弁護をせず、静かに死を受け入れた悲劇の宰相」というイメージで広く知られるようになりました。同作は毎日出版文化賞・吉川英治文学賞を受賞し、広田を扱った代表的な作品として今も読み継がれています。しかし、ここでも注意が必要です。広田は法廷で完全に沈黙していたわけではなく、証人尋問などの記録も残されています。むしろ広田について語るときに重要なのは、彼が他の被告のように強い自己弁護を前面に出さなかったことです。その態度が、後世には「高潔さ」とも「責任からの逃避」とも、両極端に解釈されることになりました。

妻・静子の死

広田の人生を考えるとき、妻・静子の死も忘れることができません。1946年5月、東京裁判が開廷して間もない頃、静子は服毒自殺しました。夫の裁判を案じたことが背景にあったと広く伝えられていますが、その動機を一つに断定することには慎重であるべきでしょう。

広田にとって妻の死は、国家的な出来事である東京裁判の陰で起きた、極めて個人的な悲劇でした。政治家としての責任、戦犯として裁かれる苦悩、そして最も身近な人を失うという喪失――広田はそれらを抱えたまま、法廷に立ち続けることになったのです。

2008年、「悲劇の宰相」の実像を問い直す

広田弘毅については、戦後長く「悲劇の宰相」というイメージが強く残りました。しかし2008年、歴史学者・服部龍二氏が『広田弘毅――「悲劇の宰相」の実像』(中公新書)を刊行します。

服部氏が描き出す広田は、優れた為政者でも、単純な軍国主義者でもありません。欧米との協調や中国との関係改善を模索する一方、二・二六事件以降は陸軍との妥協を重ね、国民世論の対中国強硬論にも流されていきます。そこに描かれるのは、英雄でも極悪人でもなく、状況に応じて判断しながら、結果として重大な責任を負うことになった「普通の政治家」としての広田です。

これは、「広田は善人だったのだから無罪だ」という見方とは大きく異なります。同時に、「広田は軍国主義者だったから死刑になった」という単純な説明とも違います。広田は軍部に抵抗できなかった。しかし、抵抗できなかったことそのものが、政治家としての責任を消してくれるわけではない。権力を持つ人間には、「何を望んでいたか」だけではなく、「何を結果として実現させたか」という責任がある――服部氏の研究が突きつけているのは、そうした厳しい視点なのだと思います。

それでも、最後には和平を模索した

ここで、広田の生涯を考えるうえで見落としてはいけない出来事があります。1945年6月、戦局がすでに日本にとって絶望的なものになっていた頃、広田はソ連の駐日大使マリクと会談しています。6月3日の会談で日ソ友好関係の増進を伝え、6月18日の会談では満洲国の中立化などを含む日ソ不可侵条約に近い提案を行いました。しかしマリク大使はその後、体調不良を理由に会見を避けるようになり、この交渉は事実上頓挫します。

つまり広田は、1930年代に日本の対外膨張政策を担った政治家でありながら、1945年には和平の可能性を最後まで探っていたのです。これは、広田が「一貫した平和主義者だった」ことを証明する話ではありません。むしろ逆です。人間は、人生のある時点では戦争につながる政策を支持し、別の時点では戦争を終わらせようとすることがある。政治家もまた、時代の中で矛盾した判断を重ねる存在なのです。広田弘毅という人物の捉えがたさは、まさにそこにあります。

出典:防衛研究所 花田智之「鈴木貫太郎内閣と終戦」https://www.nids.mod.go.jp/publication/militaryhistory_research/mh_tokushu/eastasia_military_history/pdf/emh01_15.pdf

広田弘毅から考える「政治家の責任」

広田の生涯を振り返ると、彼を一言で評価することの難しさに気づきます。

軍国主義者だったのか。平和主義者だったのか。軍部の犠牲者だったのか。それとも戦争の責任者だったのか。おそらく、どれか一つだけでは足りません。

広田は軍人ではありませんでした。しかし軍部と妥協しました。戦争を熱狂的に求めた人物とは言い切れません。しかし、戦争につながる政策決定に自ら関わりました。軍部の暴走を止められませんでした。しかし、制度上の制約だけを理由に責任を免れることもできません。そして戦争の終わりには、和平の可能性を最後まで探りました。この矛盾を抱えたまま、一人の政治家として生き、最後には死刑台に立った。だからこそ、広田弘毅は「悪人」や「英雄」という言葉だけでは捉えきれない人物なのだと思います。

現代に生きる私たちへの問い

広田の生涯から、現代を生きる私たちは何を学べるのでしょうか。

第一に、「善意」だけでは組織の暴走を止められないということです。仮に広田自身が戦争を積極的に望んでいなかったとしても、それだけでは何の意味もありません。重要なのは、実際の意思決定です。「自分は悪くない」と思っている人が、組織の中で妥協を重ねた結果、望まない方向へ組織を動かしてしまうことがあります。これは政治に限った話ではなく、企業でも、行政でも、学校でも、家庭でも起こり得ることです。

第二に、「妥協」と「先送り」には限界があるということです。目の前の対立を避けるために、「今回は仕方がない」「今はこの問題を大きくしないほうがいい」「もう少し様子を見よう」と考える。一つ一つは小さな判断でも、それが積み重なれば、後戻りできないところまで進んでしまうことがあります。広田の生涯は、その危険性を静かに示しています。

第三に、「黙っていること」が常に美徳とは限らないということです。広田の沈黙は、後世には高潔さとして受け止められました。しかし、権力を持った人間には、自分がなぜその判断をしたのかを説明する責任があります。沈黙は、ときに人格的な強さの表れです。しかし、ときには責任の所在を曖昧にすることにもなります。

第四に、制度は個人の善意だけでは補えないということです。強い権力を持つ組織が、自らの意思で政府の意思決定を左右できる仕組みになっていれば、「上にいる人が良い人なら大丈夫」というわけにはいきません。権力の暴走を防ぐには、個人の良心だけではなく、権限を分散し、相互に監視し、間違いを修正できる制度設計そのものが必要です。これは80年以上前の日本だけの問題ではないはずです。

おわりに――広田弘毅を「自分とは無関係な人」にしないために

終戦の日に広田弘毅を振り返る意味は、「誰が悪かったのか」をもう一度裁くことだけではないと思います。むしろ、「なぜ、戦争を止められなかったのか」「なぜ、政治家たちは妥協を重ねたのか」「なぜ、制度は軍部の影響力を抑えられなかったのか」を考えることに意味があります。

広田弘毅は、極悪人でも英雄でもありませんでした。外交官として出発し、外務大臣となり、首相となり、軍部と妥協し、重要な国策を決定し、戦争の拡大を止められないまま、その責任を負うことになった政治家です。そして戦争の末期には、和平の可能性を最後まで探りました。その人生は、一貫して「善」でも「悪」でもありません。だからこそ、私たちは広田を簡単に「英雄」や「犠牲者」として扱うことができないのです。

むしろ、広田の生涯を見ていると、もっと重い問いが浮かんできます。

もし、自分があの時代にいたら。もし、自分が広田と同じ立場にいたら。軍部から圧力を受けたとき、それでも「これは間違っている」と言い切れただろうか。組織の空気に逆らうことができただろうか。目の前の対立を避けるために、小さな妥協をしてしまわなかっただろうか。そして、その小さな妥協が積み重なったとき、「自分は戦争を望んでいなかった」と言うだけで、その結果から逃れることができただろうか。

広田弘毅の生涯が私たちに突きつけているのは、歴史上の一人の政治家に対する評価だけではありません。それは、権力を持つ人間が負う責任とは何か。組織の中で異論を唱えるとはどういうことか。そして、私たちは「仕方がなかった」という言葉を、どこまで許してよいのか――という問いです。

終戦の日。戦争で亡くなった方々を悼むとともに、もう一つ、考えてみたいことがあります。

「もし自分があの立場だったら、同じ選択をしなかったと言い切れるだろうか」。

その問いに簡単に「もちろん、違う選択をする」と答えないこと。むしろ、答えに迷うこと。そこから歴史を学ぶ意味が始まるのではないでしょうか。

広田弘毅 略年表

1878年2月 福岡県福岡市の石屋の家に生まれる
1906年 外交官試験に合格、外務省に入省(同期に吉田茂)
1923年 外務省欧米局長に就任
1931年 満州事変が起こる
1932年 満洲国建国
1933年 日本、国際連盟を脱退/斎藤実内閣で外務大臣に就任
1935年 「広田三原則」をめぐる日中交渉
1936年2月26日 二・二六事件が起こる
1936年3月9日 広田内閣成立(外交官出身者として初の首相)
1936年5月18日 軍部大臣現役武官制を復活
1936年8月7日 五相会議で「国策の基準」を決定
1937年1月21日 「腹切り問答」(寺内寿一陸相 vs 浜田国松議員)
1937年1月23日 広田内閣、総辞職(在職10か月半)
1937年6月 第一次近衛内閣で外務大臣に再任
1937年7月 盧溝橋事件、日中戦争が全面化
1937年11月 ドイツに和平斡旋を要請(トラウトマン工作)
1945年6月 ソ連大使マリクと会談、日ソ和平を模索するも頓挫
1946年5月3日 極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷
1946年5月 妻・静子、服毒自殺
1948年11月12日 東京裁判、判決言い渡し(死刑)
1948年12月23日 死刑執行(文官としてただ一人)
1974年 城山三郎『落日燃ゆ』刊行
2008年 服部龍二『広田弘毅――「悲劇の宰相」の実像』刊行

参考文献・資料

主な参考文献

  • 服部龍二『広田弘毅――「悲劇の宰相」の実像』中央公論新社、2008年
  • 波多野澄雄『広田弘毅』吉川弘文館(人物叢書)
  • 城山三郎『落日燃ゆ』新潮社、1974年

主な資料・公的機関

なお、東京裁判の判決内容や日中戦争期の詳細な政策文書(トラウトマン工作の具体的経緯など)については、上記の一次資料に加え、複数の百科事典・歴史解説サイトを補助的に参照しています。数値や固有名詞について再確認が必要な場合は、各節末に付した一次資料を優先してご確認ください。

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